2018-01-31

同一視

個人、共同体、国家、動物、物体、といった何ものであれ、
あらゆるものは、その都度受け取られる情報が、同一のもの
として抽象されることで同一になる。

昨日の私と今日の私が同一視によって一人の私になるという
意味では、個は情報が割られることによって現れると言える。
割り算とは、同じだとみなす操作である。
An At a NOA 2018-01-30 “割り算
あまりに膨大な量の情報が入力される中で、同一視によって
情報量を減らす抽象過程が、認識や理解というモデル化であり、
世界は割ることなしには把握できないように思われる。

2018-01-30

割り算

割り算とは、同じだとみなす操作である。

あるものを3で割るとき、分かれた3つが平等なものになるように、
元のものから3個セットを同じとみなすことを何回も繰り返す。
そのためには、何を「同じ」とみなすかも決めなければならない。

「○●△○▼●▲△▽▽▲▼」は、
「同じかたち」で4で割ると、
 ○●○●=丸
 △▲△▲=上三角
 ▼▽▽▼=下三角
「同じ色」で3で割ると、
 ○△○=白
 ●▼●=黒
 ▲▲▼=黒
 △▽▽=白
「同じ色とかたち」で2で割ると、
 ○○=白丸
 ●●=黒丸
 △△=白上三角
 ▼▼=黒下三角
 ▲▲=黒上三角
 ▽▽=白下三角
である。
それぞれの縦に並んだセットは、一見バラバラな場合でも、
それぞれの「同じ」の観点からは平等なもの同士になっている。

「被除数」個のものは、「除数」個セットを同じとみなす
ことで、実質的に「商」個のものということになる。
割り算は、いくつに分けるかであると同時に、いくつを同じ
とみなすかであり、つまりは分類である。
割るものが整数でなくても、あるいは数ですらなくても、
商対象はすべて何かしらの同一視である。

気持ちの割り算もまた、同じだろうか。

2018-01-28

貨幣論

岩井克人「貨幣論」を読んだ。

熱力学第二法則が成立するのであれば、更新される秩序としての生命は、自身の秩序の更新を維持するために、常に自分以外の秩序を解体することになる。肉体が、摂取したものを消化した上で再構築するように、精神もまた、知ったものを理解した上で自らを再構築する。「価値」は、その生命が解体できる秩序に見出される。

商品を貨幣に置き換えることは、価値として見出された秩序が、その生命以外によって解体される前に、時間を止める過程である。貨幣にある種の「固さ」が必要とされるのは、商品よりもエントロピー増大の可能性が小さいことが、時間を止めることにつながるからである。
貨幣にはある種の「固さ」のようなものが必要とされる。かつては金の酸化に対する強さだったのが、国家の揺るぎなさや個人の信用、果ては暗号解読の困難さにまで変遷してきた。
An At a NOA 2017-03-07 “シャッター街とショウルーム
貨幣が貨幣であるのは、貨幣と商品の間の宙づりの循環論法であるとしても、無限に循環する貨幣形態Zにおいて貨幣の位置を占めるには、耐久性と呼ばれる、エントロピー増大に
対する「固さ・難さ」を有しなければならない。貨幣は、他のモノに比べてエントロピーの意味での時間の流れがゆっくりであることで、相対的に流動性を獲得する。貨幣がより流動的になろうとすればするほど、あらゆる秩序の解体から遠ざかり、モノとしての価値はなくなっていく。

貨幣共同体そのものもまた、更新される秩序であり、壊死の象徴であるゲマインシャフトと瓦解の象徴であるゲゼルシャフトの間で、常に循環し続けなければならない。貨幣共同体の壊死とは、売ることの困難である恐慌であり、瓦解とは、買うことの困難であるハイパーインフレである。資本主義にとって、恐慌ではなくハイパーインフレが危機であるのは、壊死よりも瓦解が免れ難いものであるということであり、それは人間が物理的身体を有していることと関係があるように思う。物理的身体が更新し続けるには、貨幣の流動性が有効である一方で、流動性そのものは更新に寄与しない。流動性選好が卓越した恐慌の究極は、壊死した貨幣共同体という近代的ユートピア=ディストピアであるが、そこでは物理的身体が生きられないために、貨幣共同体は壊死を免れる。それとは対照的に、流動性以外の欲望の二重の一致の困難を回避する手段が見つかれば、資本主義はハイパーインフレによる瓦解を免れられえないだろう。

言語や意識もまた、貨幣と同じ構造をもっているのであれば、そこでもまた物理的身体が「価値の錨」となっているはずだ。貨幣共同体、言語共同体、意識共同体のいずれにしろ、壊死と瓦解の間に留まるための錨として、物理的身体に相当するハードウェアを必要とするように思う。

2018-01-25

2^0+2^1+2^2+2^3+2^4

=(2^5-1)/(2-1)=31
ということで31になった。
底と冪数を入れ替えると実質的に去年の式になる。
(来年はx^xだろうか)

31と言えばメルセンヌ素数である。
そしてメルセンヌ素数と言えば完全数である。
2^4×(2^5-1)=1+2+4+8+16+31+62+124+248=496

先月発見された新しいメルセンヌ素数の冪数は
77232917だった。
5と77232917は法4に関して合同であるから、
新しいメルセンヌ素数の一の位は1だろうし、
それに対応する完全数の一の位は6だろう。

メルセンヌ素数のマラン・メルセンヌは平均律、
完全数のピタゴラスはピタゴラス音律。
数学と音楽は近い。
完全数と完全五度はどちらも「完全、perfect」
であるが、ギリシア語ではτέλειοςとκαθαρός
になるらしく、違う完全さなのかもしれない。
τέλειοςはτέλοςで哲学Φιλοσοφίαに通ずるが、
これもまたピタゴラスである。

もはや何の話がしたいのかわからないが、
日々こんな感じである。

2018-01-24

人新世の哲学

篠原雅武「人新世の哲学」を読んだ。

人間はセンサの塊である。
センサとは、受け取った情報について、何らかの判断基準に
基づいて同一性を判定する過程である。
それは秩序をつくる抽象過程であり、判断基準の更新によって
更新される秩序としての生命になる。

基準の更新が堅実的な抽象過程は物理的身体の意味付けであり、
投機的な抽象過程は心理的身体の理由付けである。
後者は人間の最大の特徴であり、自然と人工の境界となる。
理由の不在としての自然と一意的な理由の存在としての人工
An At a NOA 2017-01-18 “AIと理由
ここで言う自然は、理由付けからは逃れているものの、それでも
まだ意味付けによって認識されている。
しかし、世界は意味付けからさえ逃れる情報で溢れている。
世界はなお圧倒的に無意味である。
野矢茂樹「心という難問」p.340
この自然の向こう側にある、
「情報が存在している」という言及すら不正確さを含んでしまうような
在り方で、端的に情報が在るような
An At a NOA 2016-08-27 “ぼくらは都市を愛していた
〈リアルな世界〉のことを、アーレントは「世界ならざるもの」
と呼び、モートンは「人間ならざるもの」と呼び、小野は
「酷烈」と形容し、トリンは「夜の国」と呼び、この本は
「エコロジカルな世界」として捉えようとしているのだと思う。

よどみが流れの中にあり、よどみと流れは異なっていながら、
両者の境界を確定できないのと似たような関係が、人間の世界と
エコロジカルな世界の間にもある。
絶え間ない流れに、理由という杭が立てられる
ことによってできたよどみ。
そのよどみのことを、心理的身体と呼んでいるの
だろうか。
An At a NOA 2017-04-07 “よどみ
よどみの秩序は常に脆さとともにあるが、モートンの言う
ように、その脆さは判断基準の更新のきっかけとして、
生命であることを支えているように思う。
理由付けも、例外なくこの脆さとともにあるということを
忘れたのが、近代的な人工世界なのだろう。

判断基準の更新は、その時点ではエラーの導入にみえる。
物理的身体が発生や生殖によってエラーを導入するように、
心理的身体は理由付けの投機性によってエラーを導入する。
こうして導入されたエラーによって固定化を免れたからこそ、
生命という抽象過程は局所的最適化に陥らずに済んでいるのだろう。
An At a NOA 2016-11-02 “SAIKAWA_Day19
理由付けによるエラー導入の多様化と高速化のために、
近代的な絶対時間では高々数十年から数百年の期間が、
エントロピーの時間の観点では、それよりも遥かに長い
期間に相当するという感覚を捉えたのが、「人新世」
という単語であるように思う。
(人間の次の観測者が現れたとして、人新世の期間を
近代の絶対時間の意味で正しく推定できるのだろうか)
近代以降の急成長は、理由付けによってエントロピー増大が
加速したというだけのことなのかもしれない。
An At a NOA 2017-09-15 “タイムマシン
エラー導入がますます加速する人新世は、それだけ多くの
脆さとともにある。
その脆さを忘れずにいることが、人間の世界が瓦解を免れる
ことにつながる。
更新される秩序としての生は、
更新の不在によって死に至り、
秩序の不在によって解かれる。
An At a NOA 2017-08-11 “壊死と瓦解

電磁波と細胞

視野地図(脳科学辞典)によると、ヒトの視細胞の直径は、
錐体細胞が2〜10μm、桿体細胞が2〜3μmらしい。
可視光線の波長は0.5μm前後なので、ひと桁違っているが、
この関係はどの動物でも当てはまるのだろうか。

細胞のエネルギー固有状態みたいなものが関係しているので
あれば、何かしらの法則はあるのだろうと思う。

可視光線と同じ波長の光に反応する葉緑体の大きさが約5μm
だったり、ヒトよりも視細胞が小さそうな昆虫に紫外線が
見えたりするのは、その法則の一部なのかもしれない。

2018-01-23

檻と殻

檻と殻の違いの一つに、それによって隔てられた
二つの空間のうち、どちら側からの開放が容易か、
というものがある。

体積が小さい側(通常、内側と呼ばれる)からの
開放に比べて、体積が大きい側(通常、外側と
呼ばれる)からの開放の方が容易なのが檻であり、
その逆が殻である。

動物園で大事なことは、人間側からの開放の方が
容易であることなので、動物を檻に入れてもよいし、
人間を殻に入れてもよい。
後者はサファリパークと呼ばれる。

2018-01-22

ヨーロッパ的普遍主義

イマニュエル・ウォーラーステイン「ヨーロッパ的普遍主義」
を読んだ。

「野蛮」に対する干渉の権利、本質主義的普遍主義、
科学的普遍主義と変遷してきた近代世界システムの
ヨーロッパ的普遍主義は、特定の構造を強化する
ことで、一真教的に権力を固定化してきた。

その否定が、あらゆる思想の価値を平等に評価する
超個別主義的撤退になってしまっては、大きな物語を
共有することでコミュニケーションの排除を可能に
した近代的な〈都市〉と何ら変わるところがなく、
普遍的普遍主義という別の普遍主義に移行することで、
ヨーロッパ的普遍主義からの移行は可能になる。

ヨーロッパ的普遍主義においては、大いなる判断基準に
合わせることで、収束へと向かうことが集団を維持する
ことだったのに対し、普遍的普遍主義においては、その
都度判断基準をすり合わせることでコンセンサスに至る
努力を続けることが集団を維持することになる。
新しい〔緊張の〕止揚を見いだしては、すぐにまた
それが問いへと投げ返される、一種の絶えざる
弁証法的交換を行いうるようになるのである。
イマニュエル・ウォーラーステイン「ヨーロッパ的普遍主義」p.104
世界規模で共有されるのは、「正しさ」自体ではなく、
「正しささ」のようなものへと変化する。
集団の規模はもはや単調増加である必要がなくなり、
固定化を免れるとともに、「正しささ」を共有する
ことで発散も免れる。
普遍主義Universalism=unus (one) + versus (turn)
のoneは、大文字のOneから小文字のoneになり、
集団は作られては解体されるモードになる。

そこには、結局のところ、人間が集団を作らずには
いられないという前提が含まれているが、それは
人間に限らず、コミュニケーションをとる存在
すべてに該当することであるように思う。

2018-01-21

時がつくる建築

加藤耕一「時がつくる建築」を読んだ。

建物に限らず、ほとんどのものは、多くの抽象作用が
重なり合ったものであり、その重なりは、抽象過程の
不可逆性によって刻まれた時の現れである。

複数の抽象過程の間での判断基準の差異や、個々の
抽象過程の判断基準の変化によって、自然と判断基準が
混淆した状態になっていく「再利用的」態度。

その自然な状態を野蛮とし、一つの判断基準による抽象を
前景化しようとする、ルネサンス的、近代システム的、
都市計画的、人工的、理性的な、「再開発的」態度。

判断基準の混淆を認めつつも、ある時点において判断を
下すことが、それ以上の判断基準の混淆を生み出さない
ことにつながる「文化財的」態度。

建物に対する抽象作用には、専門家によるものも、一般人
によるものも、制度によるものも、風や地震によるものも
含めて様々なものがある。
より多くの判断基準が混じっていればよいわけではなく、
どの抽象作用をよしとするかという判断は避けられない。
その取捨選択によって建物が時を刻んでいくという一連の
プロセスが建築なのだと思う。

「再利用的」は、近年の「シェア」的な建築の流行にも
つながるが、いたずらに「再利用的」を称揚するのではなく、
「再利用的」「再開発的」「文化財的」の三つを等価に
評価していこうという提案がよかった。

2018-01-17

ゆがみとひずみ

「ゆがみ」と「ひずみ」は、どちらも「歪み」。

ともに、ある「正しい」かたちから変形していることを表すが、変形をもたらしている力に着目するときには「ひずみ」、そうでないときには「ゆがみ」が用いられるように思う。

力とは変化の原因のことであるから、何らかの原因によってかたちが変化することに焦点を当てたのが「ひずみ」、「正しい」かたちからはズレているが、かたちの変化には無頓着なのが「ゆがみ」、というイメージだ。

2018-01-16

「シェア」の思想

「「シェア」の思想/または愛と制度と空間の関係」
を読んだ。

カギ括弧付きの「シェア」が流行する前にも、
地縁や血縁などによるシェアは存在してきた。
ある種のシェアがカギ括弧付きで「シェア」と
表現されるのは、それがオーソライズされた
制度から外れたシェアであることによっており、
そこには構造の変化がみられる。

しかし、その構造が固定化し、オーソライズ
されてしまえば、「シェア」はシェアに戻る。
「シェア」が「シェア」であり続けるには、
固定化と発散の間での構造の絶え間ない変化が
必要であり、論考を寄せた各人が目指している
のは、そういった状態なのだろうと想像する。
「シェア」は、笑い遊び俳諧化
グロテスクといったものの系列にある。

群論的な発想で、同型射が保つ構造に着目した
構造主義が、必然的に固定化した構造を扱うこと
しかできなかったのに対し、圏論的な発想で、
構造の変化を捉えようとしていると言うことも
できるかもしれない。

「洗練」の問題はやはりクリティカルだと思う。
「シェア」の語りがどれだけ生き生きとして、
思考に訴えるとしても、結果として示された
モノが身体に訴えるかは別問題である。
人間が二重の存在であるからには、語りと示しの
いずれか一方のみを追求すればよいということでも
ないように思う。

2018-01-15

構造と自由

多くの対象から共通部分を抽出したものが
構造であり、共通であることの判断が、
何を同じとみなすかの判断基準に依存して
いることを踏まえると、構造と判断基準は
表裏一体である。

コミュニケーションが成立するには、構造や
判断基準がしっかりとしている必要があるが、
判断基準が固定化すれば、構造も固定化する。
力学やこれまでに建ってきた建築物を踏まえる
必要はあるが、柱や梁、筋違といった分類だけで
捉える限り、建築の構造はある枠内に留まる。

自由とは、通信可能かつ応答可能な状態で、
判断基準がすり合わせられることだと思うと、
「構造」という見方そのものが、本来的には
自由であるための足がかりになるはずだ。
「構造」という言葉の重要性とは、建築家が
以下のような障害を乗り越え、支持体系を
考えられるようになったことにある。
その障害とは、二千年にも達する、既存のもの
に関する知識に由来する、蓄積された慣習的な
知恵である。
エイドリアン・フォーティー「言葉と建築」p.431

合意と合理

合意した案が合理的であるとは限らないし、
合理的な案に合意できるとは限らない。

合理は、何らかの判断基準に適う状態であり、
判断基準のすり合わせがあって初めて、
「合理的」の意味が決まる。

判断のすり合わせは、判断基準のすり合わせ
と同時進行で行われるのが理想であり、
前者を「合意」、後者を「合理」と呼ぶと、
コンセンサスとは、ただの「合意」ではなく、
判断と判断基準の両方が一致した状態、
「合意した合理/合理的な合意」である。

冒頭の事態はいずれも、コンセンサスが
取れていないことの言い換えである。

2018-01-12

内田祥哉 窓と建築ゼミナール

「内田祥哉 窓と建築ゼミナール」を読んだ。

内田先生はビルディングエレメント論という判断基準を軸に、
建築構法という分野を切り拓いた。

一つの分野を切り拓くというのは並大抵のことではない。
未分化のものを分化させるための判断基準を設定し、
筋の通った理論展開によって、その判断基準を広く
共有できるものへと発展させる困難は幾許のものか。
それが共有されるには、理論だけではなく、感覚に
訴えるだけの強さも必要とされるはずだ。
意識だけでつくったものは無意識には訴えないし、
無意識だけでつくったものは意識には訴えない。
An At a NOA 2018-01-12 “二重
内田先生は研究者であると同時に建築家であり、
考えながら語る一方で、感じながら示してきたのだ。
ご自身の経験を楽しげに語る文章を読みながら、
そんなことに思いを致した。

ビルディングエレメント論では、建築を屋根や壁と
いったエレメントに分化させ、それが統合したもの
として建築を捉える。
エレメントは、それぞれが情報を抽象するフィルタ
であり、情報の差によって表と裏を生み出す面的な
ものとしてイメージされる。
柱や梁、配線といった線的なものが、エレメントと
して捉えづらいのは、これらが何もフィルタしない
からなのではないかと思う。

線的なものは、何かを集約している。
そこには情報の差はなく、表と裏の代わりに、
始端と終端を生み出す。
屋根に降った雨水という面的な情報が、樋によって
線的な情報に集約され、地面に吸収されることで
再び面的な情報へ戻る。
鉛直荷重が、柱や梁に集約され、接地圧へ戻る。
効率が悪い面的な情報伝達の集約化によって現れる
線的な情報伝達経路。
フィルタすることのできない情報を効率的に伝達する
ためのエレメントとして、ビルディングエレメント論
の中に線的なものを位置付けることはできないだろうか。

二重

デジューレ・スタンダードのように、先に決めた
判断基準に従って抽象する意識的な抽象もあれば、
デファクト・スタンダードのように、抽象する中で
判断基準が顕になってくる無意識的な抽象もある。

人間が理由付けと意味付けの両方が重なった二重の
存在なのであれば、いずれか一方のみでは片手落ち
になってしまう。
意識だけでつくったものは無意識には訴えないし、
無意識だけでつくったものは意識には訴えない。

理詰めで語られたものに快感を覚えるか、
感覚的に示されたものに納得できるか、
といったことは、理詰めと感覚の両方による抽象が、
二重に存在しているかにかかっているのだと思う。

デジタルデザイン

デジタルはアナログに比べると離散的であり、それはある規則に従って元の情報を別の記号で置換することで達成される。デジタイズとは、情報を記号によって置換する過程である。
An At a NOA 2017-12-23 “アナログとデジタル
要素数の多い集合Aと少ない集合Bの要素同士を対応付けると、Aの異なる要素aiとai'がBの同じ要素biに対応するケースが必ず発生する。鳩の巣原理である。

Aに対してBの要素数がある程度以上少なければ、Bはデジタイズされた記号として機能できる。AやBを圏だと思えば、この対応付けは関手Fであり、ある構造を設定することで自由度を減らすような、自由構成関手だと言える。Aのいくつかの要素をまとめたものがBの要素であるとみなせば、BにおいてはAよりも要素同士が孤立した状態が生まれやすくなり、Aはよりactual、Bはよりvirtualになり得る。
拘束条件が複雑に絡み合ってできた独立変数の塊は、何らかの個として認識されるが、個を繋ぐ拘束条件が少なければ、その個にとってはvirtualな世界が広がる。
An At a NOA 2018-01-09 “actualとvirtual

圏A、Bにおける対象を案、射をスタディとすれば、上記の自由構成関手はデザインのデジタル化である。自由度の落ちた圏Bにおける射g: bi→bjの処理は、元の圏Aにおける射f: ai→ajに比べて、
 1. 遥かに高速である
 2. 時間、空間、お金、発想などの制限が少ない
のような利点があり、デジタルデザインが新しい対象を生み出す可能性を秘めているのは間違いなく、実際に生み出し始めている。

スタディ後、圏Bの対象を圏Aの対象に戻す関手Uは、デジタイズの関手Fが設定した構造を解除し、virtualからactualへと戻る忘却関手である。このとき、Aでは暗黙に前提されていた構造がBにおいて解除されてしまっていると、コストや施工性が犠牲になってしまう。AとBを行き来する関手FとUが、自由構成関手と忘却関手のような随伴になっていないということだ。これに対処するには、関手FとAの構造のいずれかを修正する必要があるだろう。Fの修正は、コストや施工性を見込んだデジタイズにすることであり、Aの構造の修正は、新しい対象に合わせた生産・施工体制を構築することである。

デジタルデザインをやるにあたって、デジタイズという関手Fがどのような構造を設定するのかを意識するのはもちろん大事だが、同じくらい大事なのは、出来上がった対象に対してどのような構造を見出すかであり、それをおこたるようであれば、その過程はもはやデザインではないように思う。それはつまり、理解や説明を心がけるということだ。

ここで言う構造は、力学的な構造に限らない。受け取る情報をある判断基準をもって処理するとき、その判断基準が何を同じとみなすかによって、必ず何らかの構造が現れる。自らのまわりにあるいろいろな判断基準を気にかけ、必要に応じてすり合わせられるようにしておくのが、生きているということである。

この話はデザインだけでなく、教育にもつながるのだが、何が言いたいのかというと、建築雑誌の2018年1月号を読んでいろいろと考えたということである。

2018-01-11

グロテスクの系譜

アンドレ・シャステル「グロテスクの系譜」を読んだ。

日本語の「グロい」は、「不気味な」を通り越して
「残虐な」の意味でのみ使われることが多くなったが、
「名づけえざる装飾」としての「グロテスク」は、
カイザー的な「不気味」とバフチン的な「笑い」の
両面を併せもつ「不気味な笑い」そのものであり、
既存の判断基準に基づく一義的な把握からは
常にこぼれ落ちてしまう類のものである。

何が「グロテスク」かという分類の試みは、
何が「笑い」かという分類と同じように失敗する
運命にあり、ベルクソンの「笑い」のように、
それはどのような過程として現れるかという視点で
捉えるのがよいのだと思う。

グロテスクは、笑い、遊び、擬、俳諧化と同じく、
判断基準の変化をもたらすことで集団を壊死から救う。
それらはすべて、常に大なり小なり起こっている
逸脱や飛躍の残像であるが、影響が小さすぎて
判断基準の変化を促せなかったものや、影響が
大きすぎて集団を瓦解させてしまったものの
中間にあった逸脱や飛躍だけが、心地よいもの
といった理由付けで語られ、つなぎとめられる
ことによって、歴史に残っていくのだろう。

2018-01-10

struo

構造設計をやりたいなら、ものが壊れるところをみなさい、ということを学生のときに教わった。壊れ方や壊し方を知ることが、構造を知ることにつながるのだ。

structureの語源はラテン語のstruere(I build)で、destroyの語源も同じく、de(un)+struere(I build)。construeは言語学の構文解析のことだが、これもcon(with)+struō(build)。construeには「理解する」という意味もあるが、これは適切な構造を与えることが理解することそのものだからだろう。

「壊す」の対義語は「構える」だろうか。構文解析のように、対象に構造を与えることが、つまりは「構える」である。その構造はいつか不可逆的に失われ、ひとまとまりだったものが分離する。その「壊す」過程によってエントロピーが増大し、時間が流れる。忘却と同じである。

「壊す」が忘却関手なら「構える」は自由関手であり、拘束条件の追加による、possibleからrealへの接近、virtualからactualへの接近である。

出演者一覧:

广




2018-01-09

過程











不気味な笑い

ジャン=リュック・ジリボン「不気味な笑い」を読んだ。

何らかの情報が繰り返し入力されることで、自然と一つの
判断基準が浮かび上がる。
その過程は、「者」に対する「」の流儀の現れのように、
ディープラーニングと同じである。

集団は、判断基準を共有することで維持されると同時に、
その判断基準は集団で共有されることで維持される。
判断基準とはベイトソンが枠として分析したものであり、
自然と浮かび上がった判断基準と枠のずれが小さければ、
枠は参照軸として維持されたまま、反復、逆転、系列の
交錯によって、笑いが生じる。
「集団が、固定化と発散の間でバランスを取ろうとする衝動」
An At a NOA 2016-11-25 “笑い

一方で、両者のずれが大きい場合には、二つの異なる
判断基準による距離感の差が、不気味さを生み出す。
距離空間の取り方によらず、何らかの尺度で近い
のに遠く感じられるものは不気味になり得る。
An At a NOA 2017-07-14 “不気味
そのとき、自然と浮かび上がった判断基準の裏で、
フロイトが抑圧と呼ぶ判断基準=枠は消えかけている。

一見別のものにみえる「笑い」と「不気味なもの」を、
手短ではあるが鋭い切り口で分析した見事な内容だった。
平凡社ライブラリーの「笑い/不気味なもの」に含まれて
いるのだが、ベルクソンとフロイトの元論文と合わせて
読めるのもよい。

p.s.
小林賢太郎が好きなのは、「不気味な笑い」に通ずる
ものがあるからなのかもしれない。

actualとvirtual

「独立変数」と「互いに独立な拘束条件」の関係が、actualとvirtualやrealとpossibleの違いを生む。

独立変数に対する拘束条件の数が多ければ多いほど、possibleからrealへと近づく。
拘束条件が絡む独立変数の数が多ければ多いほど、virtualからactualへと近づく。

拘束条件が複雑に絡み合ってできた独立変数の塊は、何らかの個として認識されるが、個を繋ぐ拘束条件が少なければ、その個にとってはvirtualな世界が広がる。メタな視点からは、virtualは離散的にみえるはずだ。

2018-01-06

DEVILMAN crybaby

「DEVILMAN crybaby」を観た。

めちゃくちゃいい。

原作を読んだことがないので比較はできないが、これ単独ですごくいい。

やっぱり印象的だったのは泣いてるシーンだ。不動明も幸田燃寛も牧村美樹も牧村ノエルもミーコもデビルマンも飛鳥了も、みんな泣き、泣くものだけがデビルマンになることができる。泣くときの絵も声もいい。牧村ノエルは「セブン」のブラッド・ピットを思い出させるし、9話のラストはデビルマンと一緒に悶えるしかない。それぞれが、言葉で分析すると消え去る何かを、とても静かに哭いている。感動とか悲しみとかでなく、泣くことそのものを理屈抜きに共有できるのはすごいと言う他ない。

湯浅政明やホドロフスキーの作品を観ていると、virtualな表現の強みというのは、色、音、形、テンポ、パース、その他諸々の要素のいずれにしろ、actualのどこかを敢えて捨象することで強調される何かにありそうだということを強く感じる。エクスタシーへの近づきを感じさせる何か。

あと、どことなく技術的特異点のことを考えた。技術的特異点が来るとしたら、それは技術的な要因よりも、悪魔に対する人間の反応のような、人間的な要因がきっかけになるのかもな、という。

4時間くらいで一気に観れるので是非観てほしい。

2018-01-05

アリジゴク

ある時点での情報を基に構築された判断機構は、
それが高速で高精度で広汎であればある程、
そこから抜け出すことが難しくなる。
埋め込まれた正義への収束。
アリジゴクの底へ。
固定化の
果ての
壊死


一方で、
理由を気にする意識だけが、
子供のように発散するトリックスターとして、
アリジゴクの底から跳び上がったことで世か い は が か  い  へ  と  む   カ ゝ   `  つ    °

者と家

著者、設計者、演奏者、指揮者、読者、芸者、役者、
訳者、研究者、患者、労働者、消費者、経営者、
高齢者、容疑者、医者、観測者、登山者、撮影者。

小説家、建築家、画家、陶芸家、書家、音楽家、
彫刻家、芸術家、演出家、愛犬家、読書家、政治家、
法律家、評論家、翻訳家、儒家、漫画家、随筆家、
脚本家、作曲家、天文家、登山家、写真家。

著者と小説家、読者と読書家、設計者と建築家、
演奏者と音楽家、翻訳者と翻訳家、観測者と天文家、
登山者と登山家、撮影者と写真家の組み合わせでは、
前者ではあっても後者ではないことは多いように
思うが、後者ではあっても前者になったことがない
というのはあまり聞かない。

「家」はやはり家元制度の名残りなのだろうか。
実際に流儀があるかどうかは別として、流儀がある
ようにみえるようなときに、「者」ではなく「家」が
使われるように思う。
サンプル数が少なくても流儀をもつことはできるし、
サンプル数が多くなると、当人が意識していなくても、
自然と流儀がみつかってしまうことはあるかもしれない。
後者はディープラーニングと同じである。

p.s.
前者や後者には、やはり流儀がないのだろう。

2018-01-01

論理と理論

論理と理論の違いは、可逆か不可逆かであると思う。

論理が同値関係に基く可逆な情報の変化を扱うのに対し、
理論はモデル化によって不可逆な情報の変化を扱う。

足あと

犬小屋から飛び出した足あとで「戌」。
哺乳類の足あとにもいろいろあることを知った。