2018-12-06

文系と理系はなぜ分かれたのか

隠岐さや香「文系と理系はなぜ分かれたのか」を読んだ。

文系と理系については何度か書いた。
An At a NOA 2014-06-12 “理系文系
An At a NOA 2016-03-06 “理系文系への解釈

文系と理系の区別の仕方に唯一の決まった方法はないし、両者を区別した結果自体にはそれほど意味はないと思う。しかし、文系・理系や人文科学・社会科学・自然科学、自由学芸七科や百科全書派の「人間知識の体系図」のように、人間の知的活動を少数のクラスに分けようとする傾向自体は、分類思考の現れとしてとても興味深い。

複雑で情報量が多すぎる現実は、単純なモデルへと分解しなければ人間には理解できない。
むしろ、不可逆な抽象の連鎖による情報の絞り込みこそ、理解や判断と呼ぶべきものだろう。
An At a NOA 2018-05-07 “系統体系学の世界
何らかの判断基準に基づいて情報を同一視することで、元の現実を人間が処理可能なまでに単純なモデルへと除算する過程が、すなわち理解である。その過程で情報に生じるバイアスが体系性や意味であり、バイアスのかかっていない情報はホワイトノイズと同じように無意味である。あらゆる理解は同一視による情報の捨象と表裏一体であるがために、単一の理解によって元の現実を完全に表すことには無理がある。

元の現実を少しでも把握しようと、少しずつ判断基準を変えながら、何度も世界を割り直そうとし続けるのが、知的活動の本来の在り方に近いのだろう。その活動は、判断基準を元のままに留めようとする力と、変えていこうとする力の拮抗によって維持される。とても生命的なプロセスだ。
An At a NOA 2016-08-09 “ホメオスタシス

現実を理解しようとする知的活動がそうであるのと同じように、知的活動を理解しようとする知的活動もまた、そのような拮抗状態にあろうとするのだろう。

生まれつきの才能やジェンダーに限らず、「適性」という発想が、既にバランスの崩壊の前兆である。バランスが崩れること自体は、新たな平衡点への移動をもたらしてくれるが、特定の「適性」に固執し過ぎれば、「最適な状態」という一つの静的平衡へと壊死してしまう。様々な「適」が次々と現れ、止めどなくバランスが崩れ続けることによってのみ、動的平衡としての拮抗状態は維持されるはずだ。

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