2019-11-28

美しくてかわいい

「『美しい』と『かわいい』の違いって何だと思いますか」
「『美しい』が『高い』だとすれば、『かわいい』は『近い』かな」
「『高い』の反対は『低い』で、『近い』の反対は『遠い』じゃないんですか」
「『美しい』と『かわいい』は別に反対じゃないよね」
「美しくてかわいいものがあってもいいし、美しくもかわいくもないものもあっていい」
「まあそうですけど」
「でも、美しくてかわいいものってあまりみないじゃないですか」
「きっと『高くて近い』という感覚が天才的なんだろうね」

高くて近いという感覚を得るには、自らも高くにあるという感覚が要る。そして、高みにありながら別の高みを看取するには、異なる価値観に基づく判断がいくらでもあり得ることを知っていなければならない。それぞれが別々の高みにあることそのものに、ある種の近さを覚える。卓抜であってなお、特定の価値観から自由であるというのがつまり、天才的なのだと思う。

2019-11-26

深層学習による判断機構の技術的複製

似たような状況に度々遭遇すると、その状況は類似から同一へと抽象され、同じ対処が施されるようになる。その結果としてデータに偏りが生じて情報となる過程が学習であり、学習を繰り返すことでデータから情報へのコンプレッサである判断機構が形成されていく。これはつまり、シグナルとノイズの切り分けによる効率化である。

学習によって生じる偏りのすべてが明示的であることは稀であり、暗に埋め込まれてしまう偏りも多い。判断機構を形成した範囲でしか通信が行われなければ露見しなかった偏りも、通信範囲の拡大とともに思わぬ形で現れることがあり、それが致命的な判断ミスとなれば当該判断機構は死を迎える。その屍の上に、時には多くを継承しながら、時にはあまり関係なく、新しい判断機構が生まれてくる。時代を追うごとに振幅が大きくなる判断機構の生滅の波を前に、効率を犠牲にしてでも消波したい派と、それでも効率を捨てきれない派が対立し、その対立が生滅の振幅をさらに増幅する。この不安定さこそが生命らしさだなと思う。

深層学習によって、入力データと出力結果の組から自然な判断機構を自動生成できるようになり、深層学習による判断機構の技術的複製可能性が高まると、「無意識が織りこまれた空間が立ち現れる」ことで、「無意識的なものを爆破するという治癒的効果」によって判断機構の生滅の過度な発散を抑える「集団の哄笑」が可能になるだろうか。

あるいはそれは、既にSNS上で試みられているのかもしれない。

2019-11-18

三様

駱駝の駱駝たる所以は一つの荷を一途に背負い続けることにあり、獅子の獅子たる所以は駱駝からの逸脱にある。

重荷を背負っていることに気付かないでいる、自覚のない駱駝。むしろ重荷を背負うことに誇りを覚えてすらいる、満足した駱駝。獅子に倣うことこそが獅子だと勘違いしている、獅子の顔をした駱駝。駱駝たちは、各々が各々に各々の荷を背負い続けようとする。

その傍らで、時折獅子が吼える。その逸脱の咆哮を、創造と犯罪のいずれとみなすかは獅子ではなく駱駝が決めることであり、逸脱の創造性と犯罪性は表裏一体であるにも関わらず、駱駝は創造性だけを掠め取ろうとする。駱駝にとっての創造性のみを取り出せるという幻想に加担し始めた獅子は、既に獅子ではなく駱駝であり、もう咆えることもないだろう。

獅子の咆哮を聞いて、その荷を背負い続けるもよし、一度荷を下ろして新たな荷を背負うのもよし。いずれにせよ、獅子が吼え、駱駝が重荷に対する決意を新たにすることで、群れは生き永らえる。獅子の咆哮に耳を閉ざしたり、獅子の存在に目を瞑ったりし始めたら、群れは壊死へとまっしぐら。獅子の生まれない駱駝の群れはユートピア=ディストピアである。

この駱駝と獅子のあいだを自在に行き来できる童子はいづこか。

2019-11-14

驚異と怪異

先月大阪に行った際、「驚異と怪異」展を観てきた。

西洋における驚異の概念が科学のルーツであるのに対し、東洋における怪異の概念は行政のツールである、というような話が面白かった。妥当な理由付けの欠如を補填するために創出される概念であるという点では、驚異も怪異も神様みたいなものであるが、設定の仕方に一神教と多神教の違いが現れているように思う。

民俗学博物館は常設展も充実していて見どころが多かった。全体として仮面が印象に残っている。




2019-11-05

駱駝とオアシス

駱駝とオアシスの話を抽象できませんか、という赤目姫の問いかけは、ツァラトゥストラのことだったのだろうか。

他にパッと連想したのは、驢馬が引く車と、回転木馬の永劫回帰のイメージくらい。

も少しちゃんと比べてみようか。