2018-03-14

ものぐさ精神分析

岸田秀「ものぐさ精神分析」を読んだ。

唯幻論はなかなか面白い。絶対的な判断基準は存在せず、すべては幻想に基づく。幻想と呼ばれるくらい基準の変化がたやすいと同時に、理由という仕組みによって、その変化しやすさを補いながら基準を共有するのが、精神という判断機構の特徴である。幻想がただ虚しく、変化しやすいだけであれば、あらゆる集団は瓦解する。理由が唯一の基準を固定化するのであれば、あらゆる集団は壊死する。壊死と瓦解のいずれかに振れたとき、精神は存在しなくなるのだろう。

唯幻論というのも一つの幻想に過ぎないが、ともすると壊死に傾きがちな一真教の時代の精神にとっては、幻想の変化しやすさをもう少し気に留めておくのがよいという示唆にはなるだろう。

ところで、人間には、目で見て顔を認識するような、理由を必要としない判断機構も備わっている。その判断基準は、精神の判断基準に比べると変化が容易ではないように思う。この判断機構を身体と呼ぶとすると、身体の判断と精神の判断は互いに無関係ということはないと思うのだが、身体の判断基準の固定化度合いは、幻想に対してどのような影響をもたらすだろうか。身体と精神を抽象すれば、判断基準の変化しやすさによって区別されるハードウェアとソフトウェアとなるが、その閾値が曖昧であり得る限り、影響がないということはないだろう。

身体であり、精神であり、家族であり、国民であり、人類であり、動物であり、生命であり、…。身体の機械化や機械の精神化が現実味を帯びる時代においては、いろいろな速度でいろいろな方向に変化する複数の判断基準の重ね合わせとして存在していることについての幻想が、ますます必要とされていくように思う。

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