2018-07-08

亡霊のジレンマ

カンタン・メイヤスー「亡霊のジレンマ」を読んだ。

絶対者という究極の理由が固定され、そこから唯一の理由の連鎖が連なるという、最も厳しいかたちでの充足理由律に縛られた形而上学的哲学においては、その理由の連鎖に予め含まれた潜勢的なものにしか考えが及ばない。それに対し、絶対者に到達する能力があるという意味で思弁的ではありながら、充足理由律を緩め、理由の連鎖、あるいは絶対者までをも、別のものへと逸脱、飛躍させることで、潜在的なものへの視野を拓くことが可能であること、すなわち、思弁的でありながら形而上学に陥らずにいられることを、メイヤスーは示そうとしているように思う。

宗教的でも無神論的でもないことによる「亡霊のジレンマ」の解消、SFでなくFHSたらしめるもの、韻律詩と自由詩のはざまでの「賽の一振り」、メイヤスーによる突飛とも捉えられかねない「賽の一振り」の解釈。そこには逸脱、飛躍、脱線、遮断による、理由なき新たな絶対者の戴冠がある。

あまりに形而上学的であることが幽閉や壊死をもたらす一方で、逸脱が激しすぎれば、消散や瓦解というもうひとつの死が訪れる。壊死と瓦解の間で揺らいでいるのが生きているということであり、瓦解するほど激しい変化でなければ、経験的な世界は安定的なものとして感じられるのだろう。

Ⅵ章ではベルクソンを受けて減算モデルを提案しているが、個人的には除算の方がイメージが近い。減算は部分対象であるから、物質から表象への単射を考えることで、表象は物質を節制したものになるが、除算は商対象であるから、物質から表象へのエピ射を考えることで、表象は物質を綜合すると同時に節制したものになる。それはつまり、エピ射が何らかの判断基準に基づく同一視であることで、複数の物質の要素が綜合されつつ、一つの表層の要素に対応することで、節制されるということだ。整数環Zから3を法とした同値関係によって剰余類環Z/3Zを作るように、無限の物質から有限の表象が現れることも考えられる。ベルクソンの「縮約の記憶力」とはこのエピ射のことであり、記憶の更新は判断基準の変化のことだと考えることができる。また、意味というものが、結局は何をもって同じとみなすかという判断基準に支えられているのだとすれば、「想起」というのは「縮約」の裏返しでしかないように思う。メイヤスーも節制と綜合を区別しているが、除算モデルでは、それらは同じことの両面でしかない。

メイヤスーの話には共感できる部分も多いが、個人的には、逸脱というのは本来的には投機的になされる賭けであり、ある種のバグに過ぎないと考える方がしっくりくる。その投機的短絡speculative short circuitを思弁的speculativeと読み替えるという別の飛躍によって、意識、理性、精神と呼ばれるものは自らを称揚する傾向にあるが、行き過ぎるのもどうかと思う。メイヤスーの思考も自分の思考も含め、あらゆる逸脱を、ただ面白いものとして戯れているのがちょうどよい。

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