2018-07-04

エコラリアス

ダニエル・ヘラー=ローゼン「エコラリアス」
を読んだ。

記憶することによって秩序が形成され、忘却することによって秩序が解体される。そのような記憶と忘却の連鎖の中で更新される秩序が言語を支えているのは確かであるが、意識されない記憶や忘却というものもまた、言語を支えるものとして存在する。いや、意識されないものであるからには、それを記憶と忘却に区別することはできないし、「存在する」と言うこともできないだろう。そもそも、意識されるものと意識されないものという区別すら、意識による理由付けによって生み出されるものだ。

そういう全体をひっくるめた、{意識|無意識}による{記憶|忘却}の過程のことを、著者は谺Echoと呼んでいるのだと思う。

残響する谺は、記憶することであると同時に忘却することでもある流れをなしている。そのことを「記憶の大部分は忘却によって作り上げられている」とボルヘスは語っていた。その流れの所々を記憶と忘却のどちらか一方に決めることで、言語といううたかたを見出してしまいたくなるのは、判断機構である意識の性なのだろう。

千の詩句を暗唱した後に忘却するという試練を乗り越えたアブ−・ヌワースのように、「層」、「言語の死」、「原初の言語」といったものを谺の中から抽象できる一方で、そこに拘泥せずにいられてこそ、凡才は天才になれる。

天才の空っぽさをもってしてもなお、谺の中に、ベンヤミンが「忘れえぬもの」と呼んだ秩序が響いているのであれば、それは人間の物理的身体のセンサ特性を反映したものになっているのだと思われる。

No comments:

Post a Comment