2016-07-31

工学的

ボットで満ちた未来における人間の役割


この記事を読んでいて漠然と思ったのは、
無意識というのはとても工学的だということだ。

風は青海を渡るのか?」で森博嗣は以下のように書いている。
工学的という意味は、つまり、理屈ではなく、
対処だということだ。
森博嗣「風は青海を渡るのか?」 p.66
意味付けに基づく無意識は、端的に特徴抽出であるが故に、
理屈による理解とは無関係、一定のエラーが避けられない、
等の特徴を有しており、それは理学よりも工学に似ている。
逆に、理由付けに基づく意識は理学に近いとも言える。

現在、人工知能が工学的に実装されることが多いことは、
だからこそ、人工知能は無意識にはなれると思うし、意識を実装できるか、
あるいはするべきかという問題はこれとは別問題だと考えている。
An At a NOA 2016-07-29 “いま集合的無意識を、
という印象に少なからず影響していると思う。

記事において、ボットだけでは対処ができないと予想しているのは、
ボットを制御する人工知能が工学的である限り、どれだけ技術が
進展したとしても、理屈が抜けていたり、常に一定のエラーを含んだり、
という特徴が拭えないということに起因していると考えられる。

そういう意味では、人工知能の実装に理学的要素を取り入れていくことで、
無意識に加えて意識的なものを追加していくのも必要なのかもしれない。
人工知能の理論自体には当然、人間が理解するための理屈が付随している
はずなので、ここで言う理学的要素の取り入れは、理論レベルではなく、
実装レベルでの話である。

パートナーシップ

異なる人間同士の間でのパートナーシップとは、
センサ同士がコミュニケーションを通じてそれぞれの
センサ特性をキャリブレーションすることにより、
コンセンサスをつくり上げることだと言える。

横文字が多すぎるので、日本語に置き換えると、
「検知器同士が意思伝達を通じてそれぞれの
検知器特性を較正することにより、
合意をつくり上げることだと言える。」
になるが、いまいちニュアンスが変わってしまうように
思うし、わかりやすさは大差ない。
特に、「コンセンサス」を「合意」に置き換えてしまうと、
con-sensus=知覚の共有という感じがなくなる
気がしてならない。

コミュニケーションの形態は様々あるが、視覚、聴覚、
触覚、嗅覚、味覚という五感それぞれにおいて
キャリブレーションが可能であり、概ねこの順に親密度が
上がるように思われる。

人間の友情、恋愛、親子関係に限らず、LGBTや人間と動物の関係、
人間とロボットの関係等、センサ特性の差異の幅はそれぞれだし、
どの程度のキャリブレーションを目指すのかもそれぞれだが、
あらゆるパートナーシップは、始めに書いたものが大本に
あるという点では同じなのではなかろうか。

それは、先日デリケートな問題として取り上げた、ARやVRと
相模原の事件に対しても言えると思う。

2016-07-30

何が正しいか

人生においては、往々にして何が正しいかがわからなくなる。
でもそれは、正しいとは何かが納得できることによって、
そもそも悩みどころではなくなる。

それを私は小坂井敏晶の著書を読んで納得した。
何度でも言おう。
正しいからコンセンサスに至るのではない。コンセンサスが
生まれるから、それを正しいと形容するだけだ。
小坂井敏晶「責任という虚構」p.166
あらゆる知識は、常に何らかの正しさを土台にせざるを得ない。
だからこそ、知識自体をどれだけ有しているかよりも、どれだけの
発想を有し得るかの方を、遥かに大切にしたいと考えている。

FPS

FPS(First Person Shooter)は、VR技術によって初めて完成する。

従来のFPSは、モニタという第四の壁があることで、
一人称視点でありながら私ではないという、
中途半端なものであったように思う。
それが、VRによって第四の壁がなきものにされることで、
ユーザは初めて「今、ここ、私」としてゲームを体験し得る
ことになり、ここにFirst Personが完成する。

そのゲーム内において、それでも躊躇なく銃を打ち続けられるだろうか。
それは、従来の画面越しのFPSとどのくらい違うだろうか。
もしそこで、銃を打てなくなってしまうようなことがあれば、
VRは新しいrealityと「今、ここ、私」のセットを仮想するだけの
技術に達したと言ってよいだろう。

ユーザは、ユーザではなくゲーム内のキャラクタになってしまうことで、
ためらいが生まれ得ると思う。
そのキャラクタは私だろうか、私ではないだろうか。

再現性

無意識という、帰納的に構築されつつある再現性の上に、
演繹的に構築される再現性が、意識だと言えるだろうか。

再現性という秩序への希求が生命なのだとすれば、
生命の延長線上には芸術が待っているだろうか。
自然がつくる秩序の中に、ある芸術性が見出されるのは
そういうことなのかもしれない。

認識が、入力された情報を圧縮することであり、
その圧縮のための符号化として再現性というパターンを
利用している、という理解が、生命とは秩序のことである、
を換言したものになるのだろう。

KAJALLA#1大人たるもの

小林賢太郎演出のKAJALLA#1大人たるものを観てきた。

何だかいろいろ、集大成感があってよかった。
手法としては古典的だったり、これまでの舞台で
やられてきていたりするものなのかもしれないが、
その構成の仕方が芸術的に素晴らしい。

ある意味テクニカルな面も多く含んでいるのだろうが、
テクニカルであってテクニカルさを表に出さないという、
これが芸術の本質なのかもしれない、というものを観た気がする。

芸術でも何でもよいが、あるものをつくるという行為は、
その再現性を任意の範囲、任意の精度で確保する行為に
他ならない。
An At a NOA 2016-07-27 “VRのなかでのものづくり
と書いた。
再現性の確保という、繰り返しを前提とした行為でありながら、
同時性と同地性によって一回性をも獲得した行為に対して、
「アウラ」をみるのかもしれない。


…というのは観劇も終わって飲んで帰ってきた後、家で振り返りながら
考えるのであって、観劇中はひたすらに笑った。
何も考えずに笑えること以上に、贅沢なこともないだろう。
今日はありがとうございました。

2016-07-29

ぼくの、マシン

少し気になって「いま集合的無意識を、」の「ぼくの、マシン」
を読んでみた。


あらゆるコンピュータがパーソナルでなくなり、シンクライアントに
なった世界。
これは、Windows10へのアップグレード問題に関連して、
ローカルをネットワークから切り離すというイメージ戦略は、
近代的な人間像と通ずるところがある。
PCの世界では、Windowsは大苦戦中だと言ってよい状況だ。
人間が近代的な人間像から抜け出すのも、同程度以上の
困難をはらんでいるに違いない。
もしこの比喩が妥当なものであるなら、通信速度の爆発的上昇は、
人間のシンクライアント化をもたらすだろうか。
An At a NOA 2016-06-02 “OS
と書いた話の延長にあるものだ。

深井零が「ネットワークという監獄から脱獄」するために、
まず必要だったのは、どこからも干渉されない空間をネットワーク上に
確保することだった。それがすべて、と言ってもよかった。
神林長平「いま集合的無意識を、」p.34
としているものこそ、近代が作り上げた個人という意識だった。

ここで描かれたパーソナルなコンピュータが絶滅した世界は、
近代以前に先祖返りするだろうか、あるいは現代以降として
別のものになるだろうか。

今日、Windows10への無償アップグレードが終わる。
いつか、パーソナルでないOSへのアップグレードが避けられなくなった日に、
私は最後のパーソナルなものにとどまっていられるだろうか。

いま集合的無意識を、

amazonのページを開くと、2012-03-16に購入とある。
買った当時、表題の「いま集合的無意識を、」だけは
読んだはずで、読み返してもところどころは覚えているが、
今回やっと、神林長平がどんなことを言いたいのかが
おぼろげながらわかったような気がした。
今回もまた、表題作しか読んでいないのだが。

なぜなら、概念などというのは人間が考える〈フィクション〉
にすぎないからだ。〈リアルな世界〉をどう解釈するかという
〈物語〉だ。それを生んでいるのが、まさしくぼくの考える
〈意識〉だ
神林長平「いま集合的無意識を、」p.212
それは、〈わたし〉を生じさせている肉体の、ある一瞬の〈状態〉
のことであって、固定化された〈主体〉がどこかにあるわけではない、
と考えるのが妥当だとぼくは感じる。
(中略)それは、われわれの認識感覚を越えて広がっている、
いまわれわれが存在しているところの〈リアルな世界〉そのものの、
ある一瞬の〈状態〉でもあるだろう。
同p.213
情報、それを受け取るセンサとしての身体、意味付け、理由付け、
というものと、同じ捉え方をしているように思う。

神林長平は、ハーモニーにおいて伊藤計劃が〈知能〉と〈意識〉を
切り分けたと指摘しているが、それは意味付けと理由付けの違いであり、
無意識と意識の違いに相当すると思う。
意味付けが大量のデータに基づく特徴抽出であり、
理由付けが少量のデータに基づく投機的短絡である、
という点で、一見両者は異なるが、データ量が十分であるかどうかという
閾値は程度問題であるから、全く異種のものではないと考えられる。
無意識と意識もまた、そのような関係にあるはずだが、
これらが独立に存在できるということには賛成である。
だからこそ、人工知能は無意識にはなれると思うし、意識を実装できるか、
あるいはするべきかという問題はこれとは別問題だと考えている。

最後に、ウェブを体外に出た〈意識野〉として捉える話が出てくるが、
この意識=フィクションの暴走を統合失調状態になぞらえるセンスには
共感できる。
神林長平が思い描いていたような統合失調状態、あるいはその先にある
人格機序の崩壊に、既に差し掛かっているのかもしれない。
一つの人体の中でのコンセンサスがとれなくなる状態を
統合失調症と呼ぶのであれば、社会としてコンセンサスが
取りづらくなっている現代は、統合失調症的な状況に
あるのかもしれない。
An At a NOA 2016-06-06 “統合

箱庭

自らの知識のみで世界を完全に把握できるという
思い込みは、最適化の完了という点において、
痴呆症と見分けがつかない。

同様に、必要以上に固定化した科学は宗教と
見分けがつかない。

外部からの情報により知識が構築されるはずが、
逆に知識により外部の情報が構築されるとき、
上記のような逆転が生じる。

コンセンサスは、それが一見不動であることによって
その役割を果たす。
それが故に、コンセンサスを動かすのが大変な
困難を伴うことは歴史が雄弁に物語っている。
しかし、科学は、コンセンサスありきの議論に基づく宗教への
反省として生まれたはずである。
ミイラ取りはミイラになるべきでない。

augmented

この問題は極めてデリケートだ。


このところ話題になっている2つのニュースがある。
一つが、「ポケモンGo」というARとRealityの干渉。
もう一つが、相模原の障害者施設での襲撃事件。

前者について。
歩きスマホや道路交通法違反はゲーム自体ではなく
利用者自身の問題なのでおいておくとして、
最も関心があるのはゲーム内の位置情報とRealityの
それとの干渉だ。
各所からポケモンが出現しないように、という要請が
Nianticに送られているらしい。
Realityにおけるルールを完全に守ったとしても、
augmentされていない人には見えない何かが
見えている人達が集まることは、それ自体が脅威に
なり得るだろうか。

後者について。
自首した容疑者の考えを知るには、こちらでは真偽の
判定のしようがない各報道に拠るしかないし、そもそも
当人ですら曖昧なのかもしれないが、障害者に対する
差別意識が原因ということのようだ。


上記2つのことに共通するのは、以前ASIMOの件でも
書いたような、「共有されない知覚」であると思われる。
それを周囲から観察したときに覚える違和感というのは、知覚の共有を
行えていないという疑念に近いものではないかと思う。
そして、おそらくだが、近代はそれを精神病と呼び始めたのだろう。
コンセンサス=知覚の共有が意識あるいは社会等のことなのだとすれば、
これはある意味で防衛である。
An At a NOA 2016-06-08 “共有されない知覚

人間誰しも、どこかしらセンサ特性は異なる。
それが個性につながるし、完全に同一の特性しかもたない
センサばかりでは環境の変化に対して種として脆弱すぎる。
そのセンサ特性の差異がある閾値を超えたとき、
知覚に関するコンセンサスが得られないという判断に
陥ってしまうことが多い。
前者ではスマートフォンのゲームという後天的な要素により
センサ特性が可変になり、ポケモンやポケストップ、ジムが
見えるようになる。
後者では、人により先天性後天性の違いはあるが、
センサ特性が異なることで、得手不得手が生じる。

センサ特性が異なるシステム同士でもコミュニケーションを
介したコンセンサスの成立が可能なことは確かだ。
しかし、それはセンサ特性が似通った場合に比べて、
多かれ少なかれ困難を伴うこともまた確かだ。
その困難に慣れていないが故に、それが不可能だという
短絡が生じる。

センサ特性の異なる人間に対する反応として、
前者では排斥の意見が多く、後者では受容の意見が多いと
したら、それは単に慣れの問題でしかないと考えられる。
そのことを自覚し、それでもそこに何らかの区別を設定しようと
いうコンセンサスをつくるのであれば、もちろんそれはそれでよい。
しかし、そのことに無自覚なままいたのでは、これからますます
増えるであろう、VRやAR等の異なるrealitiesがRealityに干渉
した際に、相模原の事件と同じことが繰り返されてしまうのでは
なかろうか。

2016-07-28

なぜなぜ期

子どもにはなぜなぜ期と呼ばれる時期があるが、このとき無意識の評価機関は
既存の世界に併せて評価結果のキャリブレーションをすることで、
意識を形成しているのかもしれない。
An At a NOA 2016-03-09 “意識に関する考察


「なんで、なんで」と聞く子に向かい。


この世のあらゆることに理由がついている
わけではないんだよ。

そして、理由が答えられることについても、
それが正しいからなんじゃなくて、多くの人が
そうだよねって納得しているからなんだ。

これをコンセンサスって呼んでいるけど、
例えば「なんで空は青いの」という質問に対して、
「それはレイリー散乱という現象で、波長が短い
青い光は、波長が長い赤い光に比べて空気中の
粒子で散乱されやすいからなんだよ」
って答えるのも、そういうコンセンサスが科学として
成立しているからなんだ。

正しいからコンセンサスが得られるんじゃなくて、
コンセンサスが得られていることを正しいと呼ぶんだ。

でもじゃあ、絶対正しいことじゃないんなら、ないがしろに
していいかっていうと、そういうもんじゃない。
例えばさっきのレイリー散乱のレイリーさんは100年以上
前の人だ。その人がこの説明をしてから、何百万、何千万
という科学者がそのコンセンサスを保ってきている。
そうやって、多くの人に支えられたコンセンサスをくつがえす
っていうのは大変なことなんだ。
ときには新しい理論ができたりしてくつがえることもあるけど、
それもまた、古いコンセンサスの上にちゃんと乗っている。

こうやってコンセンサスを取りながら、この世を秩序あるものと
して理解しようとする姿勢が、つまり生きるってことだし、
人間ってことなんだと思う。
だから、その「なんで、なんで」を大切にしながら、今ある
コンセンサスと上手くつきあっていくのがよいと思うよ。

2016-07-27

VRのなかでのものづくり

Oculusの最新デヴァイスではじまる「VRのなかでのものづくり」


「VRのなかでのものづくり」とは、何を意味するのか。

無意識や意識が受け取る情報の発信源としてものを捉える。
それは放射情報でも反射情報でもよい。
そのとき、ものは発信する情報に関する何らかの再現性を
有していると言える。
むしろ、そこから発せられた情報の再現性を基に、
そのものからのセンサへの入力情報を抽象することが、
そのものを認識するということである。

芸術でも何でもよいが、あるものをつくるという行為は、
その再現性を任意の範囲、任意の精度で確保する行為に
他ならない。
Realityにおけるものづくりはさまざまなかたちで行われる。
視覚芸術は物理的な物体に手を加えることでその物体に
再現性を宿すことが多いし、聴覚芸術は演じ手が繰り返し
情報発信の練習を繰り返すことで再現性を上げていくことが多い。

VRにおいては、この再現性が情報そのものとして構築され得る。
聴覚芸術では、これは以前から可能だったように思う。
それは、視覚に比べてクラスタリングがはっきりした情報を
用いることが可能な点や、一般的には人間は聴覚センサよりも
視覚センサに慣れており、再現性に要求される精度が低い点が
原因として考えられる。
例えば、グランドピアノ風の音色でC4の音を0.5秒というのは
midi等を用いて情報そのものとして構築できるが、
C4の白鍵の視覚情報をある光源下においてある方向からみた
様子を、情報そのものとして記述するのは難易度が上がる。
さらに、鍵盤のような形状であれば、VR空間内でやるまでもなく
モデリングソフトで対応可能だが、彫塑芸術のような場合には
そうはいかないケースが多いように思われる。
このような状況において、VR空間内でのものづくりが生きてくる。

こうして構築された再現性は、特定のアルゴリズムを用いて符号化され、
キャッシュ、メモリ、あるいはストレージに格納される。
これらの記憶媒体が物理的な物体である限りにおいては、
VRにおけるものづくりは、何重もの構文糖衣を重ね着した
記憶媒体の物理状態に関する再現性の構築だと言ってもよい。

この再現性を基にして、受け手がどのようにそのものからの情報を
受け取るかはもはや任意である。
視覚芸術であれば、VR空間内で楽しむもよし、3Dプリンタで出力
して、物理的な物体に変換してから楽しむもよし、いつどこで
楽しむのかも、受け手側に裁量がある。

作り手の所望する任意の範囲、任意の精度での再現性が、
任意の解像度で確保されている場合においても、
同時性と同地性のいずれか、あるいはいずれもが欠けた状態にあると
受け手が認識することを、「アウラ」がない状態と呼ぶのかもしれない。


p.s.
抽象と符号化はどちらも圧縮過程である点で共通しているが、
それはもしかすると本質的な共通点なのではなかろうか。

2016-07-26

コンセンサスと第四の壁

先ほどの結論を然りとするならば。

芸術においては、一つの人体の中でのコンセンサスの解消が
第四の壁を生んでいた。
その状態で、芸術の枠組み内でのコンセンサスを解消することが、
従来の芸術における第四の壁の破壊方法だった。
ハンムラビ法典方式である。

VRは、第四の壁の破壊(正確には破壊ではなく、非創造であるが)を、
一番目のコンセンサスの解消を回避することによって達成する。
と思われたが、そこに残されたものは、Realityにおける「今、ここ、私」
とは別物であることが可能になる。

いや、現実と私のどちらが別物になったとするかは、
もはや解釈の問題に過ぎない。
むしろ、意識というコンセンサスは情報抜きにしては成立しないのだから、
両者はセットで同一性を判定すべきものだ。
そういう意味で、Virtual Realityという呼び名は不当であるし、
Virtual Consciousnessという呼び名も同程度に不当である。

意識は、理由付けの過程における、各判断の間でのコンセンサスだと
思っていたが、その判断の基になる入力情報とも、当然コンセンサスが
成立しているのである。

以上が、
VR=Virtual RealityとAI=Artificial Intelligenceは
同一現象への異なるアプローチのように思われる。
An At a NOA 2016-06-29 “VRとAI
と言っていたことなのだろう。

Omnitone

この間書いたような聴覚VRをGoogleが実装したようだ。
Omnitone: Spatial audio on the web
Omnitone

ambisonicsという名前が付いているらしい。
binaural rendering, head-related transfer function等、
仕組みはおおよそ想像どおりだ。

実際にデモを聴いてみると、やはりよい。
これでもう、VRにおける聴覚の第四の壁も消せる。
視覚と聴覚が支配されると、
もう概ね「今、ここ、私」は仮想できる。
そう。
現実が処理される情報のことであり、
意識が情報処理過程のことなのであれば、
仮想されているのは現実の方ではなく、
どちらかというと「今、ここ、私」の方なのである。


2016-07-27 追記
Omnitoneのデモを改めて聴いてみて感じたのだが、
こちらが動けないので、音源が動かない場合に、
生態学的知覚システム」においてギブソンが指摘した
円錐の問題が生じる。
そう言えば、HMDとこのシステムを組み合わせる場合、
聴き手も動くことになると思うのだが、複数のマイクで集音した
データを使えば対応可能なのだろうか。
2マイクなら面内移動は対応可、3マイクなら3次元移動も
対応可等。

2016-07-25

カンデル神経科学第2章

第1章「脳と行動」

第2章「神経細胞、神経回路と行動」では、神経細胞の構造と
シグナル伝達の仕組みが概説される。

神経系を理解するための基本的特徴として、
下記の5つが挙げられている。
1. 個々の神経細胞の構造的な構成要素
2. 神経細胞内および神経細胞間でシグナルが生成される機構
3. 神経細胞間の接続パターン、および神経細胞とその標的である
  筋肉や分泌腺との接続パターン
4. 異なる相互接続パターンと異なる行動との関係
5. 神経細胞やその接続が経験によっていかに変化するのか
E.カンデル「カンデル神経科学」p.20
神経系には神経細胞とグリア細胞の2種類の主要な細胞がある。

シグナル伝達の役目を果たす神経細胞は、脳内におよそ10^11個ある。
大きく分けると、単極ニューロン、双極ニューロン、多極ニューロンの3種類
に分類される。
グリア細胞は神経細胞の2〜10倍も存在するとされ、神経細胞を取り囲む
ことで絶縁体のような役目を果たしている。

神経系構築の2原則として、
  • 動的極性化の原則
  • 接続の特異性の原則
が挙げられている。
前者は、神経細胞内でシグナルは一方向に伝わるというもので、
後者は、シナプスの形成が特定の部位に特異的になされるというものだ。

図2-7では、発散(divergence)と収束(convergence)という、2種類の
接続パターンが示される。
前者は、1つの神経細胞が複数の神経細胞にシグナルを伝えるもので、
後者は、複数の神経細胞からのシグナルを1つの神経細胞が受け取るものだ。
図2-9には軸索初節において、複数の入力シグナルがトリガーシグナルに
収束する様が描かれている。

受容器電位という入力シグナルは受動的、局所的であり、刺激の大きさと
持続時間に応じて振幅と持続時間が連続的に変化する。
これがある閾値を超えることで、能動的で離散的な活動電位が生じる。
このあたりは「計算機と脳」の中でも、周波数変調の通信系の一種として
描かれていた。
トリガー帯におけるconvergenceは、ある種のXORゲートなのかもしれない。
でもその出力は活動電位の有無という2値だが、入力は多チャンネルであり、
何かと何かが同一というよりも、その入力がどのくらい溜まったかであるところが
特徴的である。
活動電位は100m/sで伝わる、全か無かの性質をもつデジタル的なシグナル
であり、神経細胞毎の違いがわずかしかない。神経系におけるプロトコルの
役目を果たしているのだろう。
活動電位は最後にシナプス終末に辿り着くことで、神経伝達物質の放出を
引き起こす。

章の最後では、ニューラルネットワークとの関係や、神経接続と経験の関係から
可塑性仮説にも触れられる。
医学よりも工学寄りなので、こういう話とのつながりも見えてくるあたり、
とても参考になる。

ホワイトカラーの自動化

以前、ホワイトカラーの仕事の自動化について書いた。

テクニカルな問題としては、ホワイトカラーに分類される
仕事はブルーカラーに比べると情報処理の比率が
大きいので、自動化には適している。

ホワイトカラーの自動化において、最も難しいのは
問題設定の部分である。
建築設計で言えば、何を作るか、だ。

施主から、こんな家が欲しい、部屋はこう配置されていて、
キッチンはこうで、お風呂はこんな感じ、という希望が
挙げられれば、その条件に対する最適解としての平面図は
得られるだろう。
しかし、その最適解がまさに施主の望む家と一致することは
稀なように思われる。それは、人間が感じていることと
言語化できることは、必ずしも一致しないことが主な原因だ。

ホワイトカラーの専門家(ここでは建築家)は、施主が言語化
していることをベースに、これまでの経験等も踏まえて、
上記の最適解とは異なる解を提案することが多いと思われる。
しかし、建築家と施主の間でコンセンサスが成立していれば、
それが枠組みを設定することで、その解が正解となるはずだ。

ホワイトカラーの自動化において、最大のネックがここになる。
如何にしてコンセンサスに至るか。
それは受容側の問題が大きい。
コインシデンスとコンセンサスの違いは、何によって生まれるの
だろうか、そして何を生むのだろうか。

コインシデンスをコインシデンスのままコンセンサスとして
受け取るようになってしまったら、人間社会からストレスは
消え去るだろう。
でもそれはもう、今あるような社会でもなければ人間でも
ないのかもしれない。

2016-07-24

カンデル神経科学第1章

第1章「脳と行動」は、脳機能と行動の関係についての
2つの立場に関する、歴史的経緯を含めた記述が中心である。

脳機能全体論と脳機能局在論の対立において、前者は宗教等
との親和性も高く、受け入れられやすかった。
19世紀半ば以降、ブローカ、ウェルニッケ等によって、実験的に
全体論が批判されることで、局在論が支持されるようになる。
これはコネクショニズムとも呼ばれており、局在した各機能の
相互作用によってあらゆる脳機能が発揮されているという見方だ。

1950年頃まで全体論が優勢だったようだが、PETやfMRIの
登場により、生きた人間で実験ができるようになったことで、
今では局在論の方が優勢のようだ。

局在論という名前よりもコネクショニズムという名前の方が適切
かもしれない。機能が局在していることよりも、それらが連携している
ことの方が重要だと考えられる。
機能の局在化はおそらく実装上の都合だ。ボルツマンマシンを
構成するにあたって、回路全体を使わずに、一部だけで処理を
完結できるようにしておくのは、効率面で有利である。
ローカルネットワーク+グローバルネットワークと同じ構成だ。

図1-6に、言語を認識するだけで大脳皮質が活性化される様子を
表したPETの画像があるが、言語処理の領域だけでなく、認知や
抽象的表現を司る前頭皮質も活性化されているらしい。
これは、言語がVR装置として働いていることの傍証になるだろうか。

図1-7で、バイリンガルが第2言語を獲得したのが早期か後期かに
よって、第2言語の言語処理に使用される領域が異なるというfMRIの
画像が示されている。早期の場合、母語と第2言語でブローカ野の
同一領域が活性化されているが、後期の場合は隣接した領域が
活性化されており、母語と第2言語で違う回路を使用していることがわかる。
伊藤計劃のハーモニーにおいて、ミァハが後天的に意識をエミュレート
するようになった話が思い出される。

本来、神経系全体と脳はヒエラルキーがあるわけではなく、それらが
ある意味全体としてはたらいた結果が無意識や意識だと考えている。
脳はボルツマンマシンとしての情報処理回路が集中しているだけで、
神経系を含めた全体を一つのセンサとみなすのがよいのだろう。
実装効率の問題で、脳内の回路の各領域が特定の機能に対応しているという
点では、コネクショニズムの見方も妥当だが、全体を部分に切り分けたがる
近代の性格を如実に反映しているように思う。

XR

数ある何とかRのうちで、現状最も面白いのは
群を抜いてRealityだと思う。

Augmented Realityは、augmentしようとした
領域の狭さに対して、犠牲になってしまう領域が
広すぎるように感じる。
Virtual Realityは、人体というセンサの極一部
しか活用できていないものが現状ではほとんどで、
そもそも全センサに情報の入力やそこからの
フィードバックを受け取れるような装置を作ることを
目的としていないように思われる。

そういう意味では、意味付けや理由付けの負担が
極わずかになるように圧縮した情報のみを提供する
ことで、Realityの劣化コピーを作ることがARやVRの
目的なのかもしれない。

Reality自体、意味付けや理由付けという抽象により
圧縮された情報であるから、無意識や意識というのは
ある種のVR装置だと言ってもよい。
その圧縮方式は、人体というセンサの特性に適応する
かたちで変化してきたはずだ。

言語もまたVR装置の一種であり、それがRealityを
ある程度限定したかたちで再現する劣化コピーという
点では、ARやVRと同じである。
そして、言語はそれが劣化コピーであるというまさに
その点において、各人体間の特性差を上手く吸収する
ことでコミュニケーションを可能にした。
それは人体間でも行われるし、一つの人体の別の時点
同士の間でも、記憶というかたちで行われる。

Realityが第一次の抽象層であることは、人体内での
圧縮過程をスキップしない限り避けられないが、
外部の圧縮過程を追加することで新しい種類の面白さが
出現するのも確かだ。
1000年くらい経ったら、言語と同程度に発達した、
新種の外部圧縮過程が一般化されているだろうか。

2016-07-22

非同期

人間は、神経系という非同期的な回路の上に、意識という
同期的な回路を構築することで、個人という概念に立脚した
コミュニケーションを可能にした。
近現代的な発展はまさに、この同期的な回路による実践の
成果だと言えるだろう。

さて、この種のコミュニケーションが非同期的に入力されるように
なった時代において、未だに同期的な回路で処理しなければ
ならない必然性はあるだろうか。

代替方法の一つには、同期的な回路を経由しない方法があり、
無意識的なコミュニケーションと言える。
これは、現代においてもみられるだろう。

もう一つは、同期的な回路の上に、さらに非同期的な回路を
エミュレートする方法がある。ノイマン型コンピュータ上で
実装されるAIの一種である。
これを人間が意識的に行うのは大変困難なように感じるが、
電話、電子メール、Skype、LINE等の様々な非同期的入力に対して、
いつの間にか実践しようとしてはいないだろうか。

いや、いつの間にか実践しているのであれば、それは前者であり、
無意識のうちに無意識に戻っているのかもしれないが。

2016-07-21

機械人間オルタ

生命らしさを持つ機械人間「オルタ(Alter)」


科学未来館でこんな展示をやるらしい。

どのようなセンサをどのくらい積んでいるのだろう。
センサ間の通信はどのくらい行われているのだろう。
その統合の仕方はどのようになっているのだろう。
そして、この対象と通信する中で、私はどのような
コンセンサスを得られるだろうか。
端的に言えば、どのようなコンセンサスが、
そこで成立しているのだろう、という問に集約される。

一週間しか展示されないようだが、時間をつくって
見に行かなければ。


2016-08-07 追記
昨日、滑り込みで見てきた。
An At a NOA 2016-08-06 “人間らしさ

流山おおたかの森2

おおまかなものがたりやれ 大まかな物語やれ

つくばエクスプレスに乗るたびに、流山おおたかの森の
アナグラムを考えてしまう病。

2016-07-19

而立

昨日は12年振りに高校の部活の同期で集まった。

浦高生というのは実に面白い。
12年経ってもどこか浦高生らしさが残っている。
それぞれ違うところにはいるが、それぞれが本当に
嬉々として自分の現況を語れるというのは幸せなことだ。

論語に曰く、30は而立の年である。
お互い、まずはしっかりと立ち、不惑を見据えて進もうではないか。

2016-07-18

生命とは何か

E.シュレーディンガーの「生命とは何か」を読んだ。


人間の器官がなぜ莫大な数の原子からなっていなければ
ならないか、という問題設定に対し、
われわれが思考と呼ぶところのものは、
(1) それ自身秩序正しいものであること、
(2) 或る一定度の秩序正しさを具えた知覚あるいは経験のみを
  対象とし、そのような素材のみに適用されること、
であります。
E.シュレーディンガー「生命とは何か」p.23
というかたちで冒頭ではっきりと示している。
結論を冒頭にもってきて、見通しのよい議論をするあたり、
とても物理学者らしく、読んでいて気持ちがよい。
莫大な数が秩序につながり、それが思考あるいは生命になるという考えは
風は青海を渡るのか?」で森博嗣も取り上げているが、秩序があること
そのものではなく、秩序をつくっていくこと自体が生命の本質である。
これが、本書の後半で取り上げられる負のエントロピーという概念につながる。

エルゴード性を仮定すれば、莫大な数というのは空間的ではなく
時間的でもよいのだろうか。
その観点から言えば、情報を秩序だて始めたのは一般的に生命と認識される
よりも遥か以前の段階であり、システムを構成する原子の数が少なかった
時代には時間的に送受信回数を稼ぐしかなかったのが、原子の数が増えることで
空間的にスケールすることが可能になり、生命らしさが爆発的に進行したという
ストーリィはあり得る(まあでもバッファ領域がないとダメか)。

量子論の観点から、突然変異を異性体への遷移として説明しているあたりは
なるほどなという感じだ。

第六章がまさに「秩序、無秩序、エントロピー」となっており、個人的には
ここが本題だと思っている。
章の始めに引用されているスピノザの一節が印象的だ。
身体は心が考えるのを決定することはできないが、心も身体が運動したり、
静止したり、その他の何か(たとえ何かそういうことがあるとしても)を
するのを決定することはできない。
同p.133 スピノザ「倫理学」第三部第二項
この章で負のエントロピーが登場する。
そしてそのようにして、死の状態を意味するエントロピー最大という危険な状態に
近づいてゆく傾向があります。生物がそのような状態にならないようにする、
すなわち生きているための唯一の方法は、周囲の環境から負エントロピーを
絶えずとり入れることです。
同p.141
負のエントロピーはその後否定されたという話をどこかで読んだが、
負のエントロピーの摂取になぞらえた秩序の希求がすなわち生命の本質
であるというのは、相変わらず的を射ているように思う。

シュレーディンガーが「生命とは何か」を書いたのが1944年であり、
シャノンが「通信の数学的理論」を書いたのは1948年であった。
このあたりからエントロピーが情報や生命と結び付けられるようになったのだと
思うが、大本はやはりボルツマンなのだろう。
そう言えば、
 ボルツマン定数 k=1.38064852(79)×10^−23
 アボガドロ定数 NA= 6.022140857(74)×10^23
のオーダーが近いのは、原子スケールと人間スケールのスケール差を示すという
点では、ある意味当然なんだろうか。
と思って調べてみたら、モル気体定数R=k×NAというとても懐かしいワードに辿り着いた。

2016-07-16

イノセンス

イノセンスのBDを観た。

押井版攻殻機動隊のDVDも昨晩観直したのだが、
やはり問題設定の大本はこのあたりなのかもしれない。
フィクションで言えば、攻殻機動隊シリーズ、森博嗣、伊藤計劃、
それ以外で言えば、「通信の数学的理論」、「生命とは何か」、
「生態学的知覚システム」、「ゲーデル、エッシャー、バッハ」あたりだろうか。

情報を所与のものとしたとき、それが如何にして自分へと辿り着くのか。
端的に言えば、そういうことである。

人形、神、動物。
現代の人間は、このいずれでもない。
なるべきだろうか、ならざるべきだろうか。
その問を置き去りにして、人形になり始めていることを感じ取った上での
警告とも取れるような内容だと感じた。

ゴーストダビングの過程で失われるものは何だろう。
そんなものはあるのだろうか。
こうしてつけているweb logもまた、私という意識の極めて不完全な
ダビング装置の一種である。
分割され、散逸してしまう情報を、何とか一つに束ねておこうとするのもまた、
意識的であり、生命的な活動なのかもしれない。

第四の壁を探して

ウロボロスを形成したまさにその瞬間、
センサの定位情報と入力情報の必然的でない
一致に気付いてしまったのだろう。

そこに第四の壁を下ろし得るという事実。
第四の壁は望むならいくらでもメタの螺旋階段を
駆け上がれるという認識。
それはウロボロスのウロボロスたる所以であるが。

情報の織り成す構造のうちに下ろすことのできる
第四の壁を探すこと自体が、私という意識だろうか。
ウロボロスを形成すること抜きには、情報間の
コンセンサスは意味付けにより必然のものとして
受け取られるだけであり、第四の壁はなくなるのではなく、
始めから端的にない。

演劇、小説、絵画、舞台、映画、等々、
あらゆる視覚芸術は第四の壁の出し入れを意識的に
あるいは無意識的にしているはずだ(そう言えば、
音楽等の他の知覚芸術はどうだろうか)。
VRはこういった芸術の一員になるだろうか。
それとも、第四の壁の存在を完全に消し去ることも
可能になるだろうか。

2016-07-15

固有値解析への補遺2

関連
固有値解析
固有値解析への補遺

最近解いている固有値問題が自由度15800くらいで
爆発しろと言いたくなるくらい遅いのでコードを見直す。
(それでも数時間待ってれば終わるのだが)

補遺の記事で
本来はマトリクスと同じ次元の正規直交基底について二次形式をとり、
その正負の数をカウントするのが正しい。
An At a NOA 2016-04-09 “固有値解析への補遺
と書いた。
これは間違ってないのだが、Sylvesterの慣性律によれば
こんなことをする必要はない。
B=S A St (StはSの転置行列)というかたちでAを正則行列Sで
変換したとき、正の固有値の数、ゼロの固有値の数、負の固有値の数は
AとBで不変であるというのがSylvesterの慣性律の主張の一つだ。

この解法の肝は正定値性の判定であり、行列が正定値で
あることと、行列の固有値がすべて正であることは同値なので、
上記の関係において、Aで調べてもBで調べても同じことだ。
解法の途中で修正Cholesky分解をしているということは、
A=L D Lt なる正則行列Lと対角行列Dが得られているので、
Dの対角要素だけ見ていけばよいだけだ。

Lが直交行列であればDの対角要素はすなわちAの固有値なのだが、
単に正則行列というだけでも符号の情報は保存されるので、
正、ゼロ、負の数をカウントするだけでAの正定値性がわかる。

そして、多分だが、高次固有値も同様に上手くいく。
一次固有値を求めるときは、負の固有値が0個、
二次固有値を求めるときは、負の固有値が1個、
三次固有値を求めるときは、負の固有値が2個、
以下同様にして、修正Cholesky分解により得られる対角行列Dの
対角要素のうち、負のものの個数=Aの負の固有値の数を
カウントすることで順次高次固有値を求めることができる。

最悪の場合、前進消去と後退代入を15800回やった上、
15800×15800≒2.5億回の掛け算をやっていたのが、
最悪でも15800回の符号判定だけで済むようになったのはでかい。
数時間と言っていたのが2分くらいで終わるようになった。

2016-07-15 追記
うーん、やっぱり高次固有値はところどころ飛んでしまうな。
たぶん元論文に書かれている計算誤差の影響のためだろう。
まあ最小固有値だけ使う分にはよいか。

第四の壁

センサの定位情報とセンサへの入力情報の間での
意味付けというコンセンサスが「今、ここ、私」を生む。
仮に、3km南の視覚情報が、頭の回転とは逆方向に変化
しながら5分遅れで入力されたら、「今」は5分ずれ、
「ここ」は3kmずれ、方向の逆転も含めた全体として「私」が
ずれることになるだろう。
それがどこでもドアの精神的実装につながる。

第四の壁は、この二つの情報のコンセンサスを断絶することで
「今、ここ、私」を消し去る。
そうして彷徨った情報処理過程が、第四の壁の向こう側の
どこかに同期することで感情移入が達成される。

VRでは、そのコンセンサスを技術的に補い、第四の壁を迷彩
することで「今、ここ、私」を仮想している。
現状ではおそらくセンサへの入力情報を制御する方式しか
ないが、定位情報の方を制御することでも第四の壁は
消せるはずである。
それは、東京大学制作展2016のLove Dream Happinessが
想定する、咀嚼会が成立するかという問題と同じだ。

本質的には、どちらの方式も第四の壁を仮想的に消している
点で同じなのだが、果たして後者はVRと呼ばれるだろうか。
そこに再構成されるものを「私」と呼ばないのであれば、
それはむしろAIの概念に近いと考えられる。

攻殻機動隊原画集

I.G.ストアには先述のVR体験目当てで行ったのだが、
原画集が売っていたのでつい買ってしまった。

これは凄まじいものを手に入れてしまった。
コマ送りで攻殻機動隊のDVDを見ながら見比べるなどという、
贅沢な時間の使い方をしてしまいかねないくらいに魅惑的。
ああ、主よ人の望みの喜びよ。

原画展、東京近辺でもう一回やってくれないだろうか。

2016-07-14

計算機と脳

J.フォン・ノイマンの「計算機と脳」を読んだ。
惜しくも未完の遺稿となってしまい、短い冊子ではあるが、
興味深い考察である。

脳の能動素子は計算機のそれに比べて精度が落ち、
速度も遅いが、恐ろしく数が多い。
計算機は直列的なため、誤差が積もり、増幅されることに
備えて個々の素子に非常に高い精度が要求される。
ノイマンはこれを算術深度あるいは論理深度が大きい
ことによる劣化と表現する。
一方、脳は並列的なため、そういった影響が小さい。
脳の素子の精度の低さは、情報を周期的なパルス列で
伝達するという方式のためなのだが、それは同時に
信頼性を生み出しており、深度を浅くすることで劣化を
防げるのであれば、信頼性を優先するのはとても
理にかなっている。

直列と並列ではそもそも互換性が完全ではなく、
直列→並列の変換の際には論理構造や処理手順の変更が、
並列→直列の変換の際には追加の記憶装置が、それぞれ
必要になるという指摘がある。
直列なプログラム+大規模な記憶装置でAIの実現を目指すのは
妥当な選択だろうか。記憶装置のリードとライトがボトルネックに
なって破綻してしまわないかが気がかりだ。
ディープラーニングで制限付きボルツマンマシンを構成する際も、
層数を増やすのではなく、層毎のノード数をスケールアウトさせる方が
近道なのかもしれない。

ノイマンは神経系が二つの型の通信、つまり「論理」と「算術」に
分かれており、前者を言語、後者を数学に対応させる。
数学が、メイヤスーの言うところの祖先以前的な記述につながる
のだとすれば、それは時間の要素が「論理」の側に集約されて
いるからだろう(それとも、論理深度が時間を生んでいるのだろうか)。
神経系を流れるパルスにはそういった複数の型があるのだろうか。
もしないのであれば、上記のような場合分けは意味付けあるいは
理由付け以降に仮想されるものである。

余談だが、訳者あとがきにおいて、ノイマンの個性をできるだけ
残すように訳出したとあったのが、読んでいて少し実感できたのが
よかった。訳者の言うように、確かに読みづらくはなってしまうのだが、
限られた時間の中で、ノイマンが少しでも発想を残そうとしてくれた
ことが感じ取れて、とてもよい訳だと思える。

p.s.
「生態学的知覚システム」、「計算機と脳」ときて、神経系の最新の
知見を得たいと思い、「カンデル神経科学」を購入した。
さすがに中身を見ずに買うのも憚られる値段だったので、10年ぶり
くらいに書籍部の医学書コーナーに立ち入った。
階段を3段くらい登らないといけないあたり、敷居の高さを感じさせる場所だ。

攻殻VR

I.G.ストアで攻殻機動隊VIRTUAL REALITY DIVERを体験してきた。
先日の東京大学制作展に続き、2回目のHMD型VR体験であった。



今回はヘッドホンも装着したので視覚+聴覚だが、
聴覚VRの方は先日書いたような耳の移動に伴う補正が行われないので、
360°なのは視覚だけだ。

映像作品としては面白い。
現実感としてはまだまだこれからといったところだ。

映像作品の新しいあり方として見ると、作り手側はこれまで以上に
人称を意識しないといけないだろうな、ということを思った。
頭と連動して視野が変わるのはいいのだが、果たして
一人称なのか三人称なのか、あるいはいずれでもないのか。
どう見せたいのかがぼやけているように感じる。

しかし、三人称的な描き方などそもそも可能だろうか。
センサとして情報を受け取る行為、および意味付けや理由付けが、
不可避的に「今、ここ、私」を生み出してしまうのであれば、
常に一人称から逃れられない。

三人称で書かれた小説は如何にしてこの問題から逃れているだろう。
あるいは逃れているように見えて逃れられていないのだろうか。


2016-07-14 追記
フィクションには「第四の壁」という概念がある。
これを破らない限り、受け取り手は「私」以外になり得る。感情移入というやつだ。
しかし、「第四の壁」が破られた瞬間、受け取り手は「私」であることを
強制され始める。
小説や舞台等の既往の芸術において、「第四の壁」は個々の演出によって
破られてきたが、視覚VRにおいては、全方位の映像を用意し、頭部の動きと
映像を同期させるという手法全体で「第四の壁」を迷彩化している。

攻殻のVRでも、ところどころで強制的な視点の移動が生じるのだが、
その瞬間には「私」であることをやめられるように感じた。

「第四の壁」を巧みに出したり消したりすることで、人称を自由に操作するところに、
現実感の追求とは違った視覚VRの面白みがあるのかもしれない。

仏教

昨日のウロボロスの話を仏教的に整理してみる。
参考:Wikipediaの解脱輪廻涅槃悟りの各項

理由律に囚われた状態が煩悩であり、ウロボロスのことを
輪廻と呼ぶ。
ウロボロスを解体することが解脱であり、それは事物を如実に
観察(かんざつ)することによって達せられる。
そうして辿り着いた涅槃とは悟りの境地であり、そこには
思考も言語もない。

これは、センサへの入力情報に対し、一切の意味付けや
理由付けを行わないことに対応するだろうか。
理由付けをやめることでしか、おそらくウロボロスを解きほぐす
ことはできないということだろう。
意味付けのみであれば、あるいは残せるのかもしれない。

涅槃と、ハーモニーのスイッチが押された後の世界は
どのように違うだろうか、どのように同じだろうか。

2016-07-13

ウロボロス

理由律に絡め取られたセンサは、原因を求めて彷徨い歩く。
それは、神、他者あるいは自己に出会っただろうか。

いずれにせよ、理由律の出発点として、後に自己として再認識
されるものに辿り着くことで、ウロボロスができあがる。

こうしてできた、理由付けの再帰構造こそが、意識たり得るだろう。
現象学のような、全ては意識の織りなす世界であるという世界観は、
ある意味では究極のウロボロスなのかもしれない。
演繹は入れ子にする意味に乏しいが、帰納は入れ子にすることで
新たな意味を獲得する。
おそらく、再帰構造の中にしか、人間は人間性を見出せない。
An At a NOA 2015-06-09 “hIE

andlabs/ui

久々にandlabs/uiを見に行ったらいつの間にか
使えるようになっていた。
libuiというかたちでプラットフォーム依存部分を
切り分けたようだ。

linux mintに入れてみたところ、無事動いた。
後でwindowsもやってみるか。
以下、手順。

1. cmakeを3.1以上にする
aptで入れたのは2.8くらいだったので、公式サイトから
ソースをダウンロード。今日時点で3.6が最新。
tar -zxvf cmake-3.6.0.tar.gz
cd cmake-3.6.0
./bootstrap
make
sudo make install
ここまでで/usr/local/binにcmakeができるのだが、
export CMAKE_ROOT=/usr/local/share/cmake-3.6
としておかないと、Modulesが見つからないとかで使えない。

2. libgtk-3-devを入れる
sudo apt-get install libgtk-3-dev

3. libuiをもってきてビルドする
git clone https://github.com/andlabs/libui
cd libui
mkdir build
cd build
cmake ..
make
out/libui.soができるので、/usr/local/libあたりにコピーしておく。

4. uiをもってくる
go get -u github.com/andlabs/ui

ここまででGetting Startedのサンプルを動かせるが、
ドキュメントがないのでコードでも読みながら実装するか。

2016-07-12

機械処理

参院選開票作業ミス 西宮市選管、説明二転三転


こういう作業を何故機械化しないのか、という比較的
受け入れられやすい疑問と、統治自体を何故機械化
しないのか、という比較的受け入れられにくい疑問の
間には、どんな違いがあるだろうか。

その違いは、おそらく思ったほど大きくない。

老化抑制

老化抑制物質、慶大が人で臨床研究


老化抑制を実現した暁に、どんな世界がくることを想像
しているのだろう。

老化あるいは老衰による死は、センサが過度に最適化
されることを防ぐための究極の予防線ともみなせる。
センサの耐用年数が急激に上がったとして、回路の方は
実用に耐えられるだろうか。

情報は常に変化する可能性があり、一時的な最適化は
悪手になることがままある。
世代交代ではない方式で最適化を防ぐとしたら、それは
パラメタのリセットによるのだろうか。
老化しない身体は、一定の供用期間が過ぎたら強制的に
回収、再利用されるのだろうか。

身体は再利用できる一方で、そこに実装された意識は
再利用できないのであれば、個人という同一性は不連続に
ならざるを得ない。

自然に死ぬことができるのは、果たしてよいことだろうか、
よくないことだろうか。
意識ありきで考えるとそんな問いが成立しそうだが、
センサありきの場合でもこの問いは成り立つだろうか。

スカイ・クロラシリーズで描かれたキルドレを思い起こさせる。

生態学的知覚システム

J.J.ギブソンの「生態学的知覚システム」を読み終えた。


ギブソンの唱える直接知覚論は、最近考えているセンサとしての
身体という見方と共通する点が多く、共感できる。

一点捉え方が異なるかもしれないと思ったのは、情報の在り方だ。
ギブソンは、情報自体が既に構造をもっており、その不変項を検知
するとしている。
個人的な直感としては、情報に構造を与えることは知覚システム側
の処理なのでは、というところだ。それは特徴抽出によって行われ、
不変項の検知までを含めて意味付けと呼んでいる。

感覚作用なき知覚はあるが、情報なき知覚はありえない。
J.J.ギブソン「生態学的知覚システム」p.2
ちょっと前の記事で引用したが、再掲。
感覚作用は理由付け、知覚は意味付けに近いものだと考えれば、
情報→知覚→感覚作用という順は崩れないはずだ。
感覚作用についての著者の考えは、本書にはあまり出てこず、
直接知覚論自体、ここで意味付けと呼んでいる範囲をターゲットに
しているように思われる。

知覚の恒常性の説明を、脳だけに求めず、知覚器官の調節も含めた
能動的知覚システムの神経回路に求めなければならない。
同p.5
脳の役割に関しては個人的にも判断しかねる。
以前から、プロセッサ兼メモリという言い方をしているが、
ギブソンは脳はそのいずれでもないとしている。
少なくともメモリに関しては、ギブソンが言うように、記憶というかたちで
何かが保存されるというよりは、神経回路全体の情報に対する共鳴という
イメージの方が近いのかもしれない。
ディープラーニングからの類推で言えば、脳がプロセッサ兼メモリになっている
というよりも、脳以外の神経回路を可視層、脳内の神経回路を隠れ層とした
ボルツマンマシンを神経回路全体で構成しており、隠れ層でのパラメタの
調整がプロセッサやメモリのような処理として観測されるということでも
よいのかもしれない。

反響音は、反射した対象の情報をほとんどはこばない。しかし、音の
原因事象の時間的構造や、振動周期の情報は、たいへん精密に与える。
同p.20
一方で、光については、
エネルギー放射は、環境によって変更された後に限り、地上環境の情報を運ぶ。
同p.238
としているのは不思議だ。光が放射よりも反射によって情報をもつことになるというのは
とても面白いが、何故音では反射よりも放射時の情報の方が大きいのだろう。
他の知覚に関してはどうだろうか。このあたりはそれぞれのセンサの特性に
よるのかもしれない。

異常な情報が長時間知覚システムに押しつけられると、《再較正》が
起こることを示唆する実験があり、これは脳内の較正過程を理解する
助けになるかもしれない。
同p.140
VRに対する較正の問題には、較正が生じないようにVRを限りなくRealityに
近づける道と、再較正を許容する道の2つがあるが、どのように解決していくだろうか。
第14章の以下の文は、VRに対する警告ともとれる。
真の幻覚を招く知覚システムの機能不全は、おそらく、重い精神障害のように、
知覚的探求がある種抑制され、知覚情報の現時点での入力が遮断もしくは
拒絶されることによるのである。
同p.367

システムは、明瞭性を達成するまで「狩り」をする。
同p.311
と書いているのは、伊藤計劃の言う、人間は無意味に耐えられないということと同じだ。
単にデータ量の問題という点では、意味付けと理由付けの境界はかなり曖昧である。
知覚システムは常に強制的な抽象を行っており、追加データによる隠れ層のパラメタ
変更がほとんど起こらなくなった状態を意味付けとみなせるのだとすれば、
痴呆と無意識は本質的に同じことになる。
認知症の治療というのは、知覚システムがもつ過度な最適化の抑制ということになるが、
果たして適度と過度の仕分けは可能だろうか。

物理的な事象は、前と後の関係に従い、過去と未来の対照には従わない。
情報への共鳴、すなわち、環境との接触は、現在とは何の関係もない。
同p.317
知覚システムが情報を抽象する際には、空間も時間もないはずである。
ギブソンが隣接順序と継起順序と呼ぶものは、ブルバキ的に言えば位相構造と
順序構造である。こういったものは、外的な情報がそもそももっているものだろうか。
それとも、抽象の過程で想定されるものだろうか。

したがって、《同じ》の検知は《違う》の検知と同様に根本的である。
同p.319
情報とセンサが先行し、意識が追従するものというストーリィに共通する、
最も根本的な判断は、この「同一性」である。
この同一という判断を下すことが抽象であり、ギブソンの言う不変項の検知である。

本書の提案する理論では、識別は、《それ自体》で有用な行為である。
それは、罰や報酬によってではなく、明瞭さによって強化される活動である。
同p.324
何故意味付けや理由付けを行うのか。この問もまた理由付けである。
「識別」や「判断」が先か、「不変項の検知」や「抽象」が先か。
それは、生命とは何かという問とほぼ同じである。
果たして、生命を維持するために情報に意味付けをし始めたのだろうか、
それとも、情報に意味付けをし始めることで、生き始めたのだろうか。
An At a NOA 2016-07-05 “随想録1
自分が何者であるかを探し求めているすべての人に本書を捧げる。
同p.371
 p.s.
J.J.ギブソンはアフォーダンスという語の提唱者としても知られるが、
私はアフォーダンスの意味を取り違えていたようだ。
建築の授業で習うのは、Wikipediaのアフォーダンスの項で「デザインにおける
アフォーダンス」とされているもので、ドナルド・ノーマンによる誤用で広まった
考え方の方である。

2016-07-11

ヒートカッター

建築の模型作りでは、スタイロフォームや
発泡スチロールをよく使う。
これらを切るときに使うのがヒートカッターだ。

材料も道具も結構かさばるので、情報だけ
取り出したいのだが、可能だろうか。

スマートフォンには加速度センサがついているので、
位置と姿勢を取得できるはずだ。
スマートフォンをヒートカッターのニクロム線に見立て、
コンピュータ内に置いた塊の周囲を動かすことで
切断していく方式が一つ。
逆に、スマートフォンを塊に見立て、コンピュータ内で
固定したニクロム線の周囲で動かすことで
切断していく方式がもう一つ。

BlenderのようなCGソフトウェアを動かすコンピュータと、
位置や姿勢を取得するためのデバイスがあれば
ソフトウェアの実装自体は簡単そうなんだが、
そこからどれだけ現実感を得られるだろうか。

情報・意味・理由

情報と意味と理由は異なる。

情報は端的にあることができる。
意味は大量の情報が自然に抽象されたものである。
理由は情報の不足を補間するための強制的な抽象である。
理屈、理論あるいは物語等と呼んでもよい。

一般的な用語としての「情報」は、ここで言う
意味あるいは理由として使われることが多い。
意味のない情報はあり得るが、情報のない
意味はあり得ない。

以上が、2013年4月7日の自分への回答である。

今日、蝉の声を聞き、雲が夏を知るのを見た。

天気図には停滞前線が残っているので、
梅雨明けの発表はまだ先だろうが、
五感に訴える情報は確かに夏のそれである。

美と合理性

構造デザインの大家、坪井善勝先生の言葉に、
真の美は構造的合理性の近傍にある
というものがある。
(ネットで調べると何パターンか出てくる)

真も美も合理性も、ある集団の中でのコンセンサスにより
決まってくるものである。
上の一文の真意は、美と合理性は近いけれども完全には
一致しない、ということだったと思う。

合理性が構造技術者あるいは構造の研究者という集団の
中でのコンセンサスによっておおよそ固まっていく一方で、
建築は、そういった構造の話もあれば、意匠、計画、設備、
音響、等々、様々な集団内あるいは集団間のコンセンサスで
成り立っていく。
美と合理性が近いのは、建築にも構造の要素が絡んでいること、
美と合理性が一致しないのは、構造以外の要素も絡んでいること、
を端的に表している。

2016-07-10

東京大学制作展2016

工学部2号館で開催中の東京大学制作展2016を見てきた。
それぞれが考えていることを、何とかかたちにしようという
思いが見える作品も多く、好感がもてる。

ちゃんと説明を聞けたのは
  • READY TO CRAWL
  • Love Dream Happiness
  • 一回音楽
  • I'm in
  • ふぁぼらせったー
あたり。

Love Dream Happinessは、電磁誘導を利用して
咀嚼行為を転送するものだ。
VRとはアプローチが少し違うものの、入力情報を
仮想しようというあたりが共通している。
いや、センサ側の強制的なキャリブレーションを誘引するという
意味では、VRというよりも人体を使ったAIの開発に近いかもしれない。
果たして制作者が言うような「咀嚼会」は成立するだろうか。
受け取り手側の問題として、入力情報により励起された運動が、
痙攣のようなもの以上のものになれるか、という点があると思う。

一回音楽は、六角形の鉛筆の各面にレーザプリンタで凹加工を施し、
それを6bitの情報として鉛筆削りで読み取ったものを音楽化する装置だ。
鉛筆削りは手回し式だったので、センサが回転しながら凹凸を読み取って
いるのかと思ったら、どうやら違ったらしい。
時間軸は回転方向にあるのではなく、鉛筆の軸方向にあり、6つのセンサで
各面を読み取っているようだ。
鉛筆は三菱製だったが、せっかくなので六角形の鉛筆の元祖である
ファーバーカステルの9000番を使ってくれたらと思う。

逃避

投票日
当否曜日
問う日曜日


選挙には行ってきたが、「国のあるべき姿」を
問われたときに、国という形態であるべきとは
限らないという選択肢はあり得るのだろうか。
それは、意識とは何かと自問するのが意識でしか
あり得ないだろうかという問いと似た構造を感じる。

2016-07-09

音楽

以下は、We are the worldを指揮するクインシー・ジョーンズと、
それに応える伝説級の歌い手達のリハーサル映像を見ての所感である。


聴覚芸術である音楽において、何故指揮という
行為が中心化するのだろうか。
指揮を見ることにより視覚が卓越してしまうことで、
聴覚が犠牲になってしまっては元も子もない。

強弱や拍子といった、楽譜に記された記号は、
それどおりに演奏するべき指標というよりは、
その音楽を奏でるにあたって、最も自然だと作曲者が
感じた無意識の塊であるはずだ。
それを意識的に忠実になぞることは果たして音楽だろうか。

彼らのパフォーマンスにおいてはこういった側面が
全くと言っていい程、見られない。
あれが、純粋に音楽だな、と思えた。
歌い手と指揮者、あるいは歌い手同士のコンセンサスをとる中で
表現が固まっていくような、あるべきコンセンサスの姿が垣間見える。


意識があることでむしろ死んでしまうものもある。
むしろ、そういったものの方が多いようにも感じる。

理由付けによって築き上げた死体の山こそ、
我々が現実と呼んでいるものなのかもしれない。

責任主義

あるものに責任を負わせたいがために、そのものの
自由が想定されるのだとすれば、責任の押し付けは
自由の氾濫を引き起こす。

その意味において、自由主義とはそもそも責任主義であり、
それは神が死んだ世界において理由律の出発点を
再創造する必要から生じるものである。

同じ意味において、大いなる原因抜きに共産主義が
失敗したことは致し方のないことであり、
その成功には大いなる原因の創造か理由律の棄却の
いずれかが要されると考えられる。

無意味であることに耐えられないんですよ人間は。
伊藤計劃「ハーモニー」p.375

2016-07-08

VRとしての言語

VRは、Realityとの情報のズレによって、
身体という知覚システムの再較正を促す。
この再較正を如何に小さくするかが、VRの
現実感につながる。

言語もまたVR装置だとすれば、身体は常に
較正を繰り返しながら、言語のみせるrealityの
整合性をとると同時に、Realityとの整合性も
とっている。
そのような較正の仕組みを考慮すると、
身体というセンサを介すことで、言語には
ある程度の自動調整機能が自然と備わっている
と思われる。

AIに人間の自然言語を覚えさせた場合に問題と
なるのは、この自動調整機能が阻害される点だろう。
それは、AIの備えるセンサと人体のセンサの違いが
原因となる。
AIのセンサに適した言語体系を築くか、
AIのセンサを人体に近づけるしか、その問題を
解消する手はないように思われる。

2016-07-07

情報の割り振り

意味付けと理由付けの違いは、
入力された情報を判断に用いる際に、
空間的に用いるか、時間的に用いるかの違い
として理解可能だろうか。

位相構造と順序構造の違いと言い換えてもよい。

連続的に入力される情報を、位相構造として
統合することで、空間認識が得られる。
これを意味付けと呼び、それは無意識の判断の
基になる。

連続的に入力される情報を、順序構造として
統合することで、時間認識が得られる。
これを理由付けと呼び、それは意識の判断の
基になる。

同地性よりも同時性の方が重視されること、
あるいは擬似的な再現が困難なことも、
問題としては通底しているかもしれない。

p.s.
あるいは逆に、意味付けによる判断は空間的に認識され、
理由付けによる判断は時間的に認識されるのだろうか。
そうであれば、あらゆる判断が意味付けのみによって
行えるようになった場合、時間概念は消え失せる。

2016-07-11 追記
エルゴード仮説との関係は?

2016-07-06

表現形式

言語は、個々の人体間のセンサ特性の微妙な違いを
上手く吸収している。

センサが受け取った情報の表現形式次第では、
センサ特性の僅かな違いが目立ってしまい、
いつまでも真理のコンセンサスに至らない可能性もある。

真理の唯一性

もし真理が一つしかないように見えるのであれば、
それはその真理についてのコンセンサスをとっている
もの同士のセンサ特性が概ね同じであるためである。

異なる特性のセンサをもつもの同士では、その特性の
共通部分については唯一の真理が得られると感じられる
かもしれないが、それ以外の部分については各々の真理を
もつことになると思われる。

電子顕微鏡

電子顕微鏡で見るというのはどういうことだろうか。

人間は、道具なしには通常は可視光線しか見ることができない。
(本来、見ることができる電磁波のことを可視光線と呼ぶので
文としてはおかしいが)

電子顕微鏡を用いることで、可視光線の波長では解像できない
対象についても、電子に対する反射特性を光学的な反射特性と
仮想することで「見る」ことができるようになる。
人体の外部にあるセンサを利用することで、知覚の領域を
拡げているということである。

センサの拡大に伴い、現実あるいは真理というコンセンサスの
領域もまた拡大することができる。

2016-07-05

随想録1

まえがき


絶対不変の真理は存在しないと私は考える。

真理とは、ある集団において、通信をとおして成立していく
コンセンサスのことを言うのであり、常に通信が先行する。

この考えもまた、絶対不変の真理であることは不可能だが、
これを読み、考え、発信と受信を繰り返す中で、真理として
形成していくことは可能である。
もちろん、それは通信を行った集団の中においてのみである。

錦の御旗を掲げる正義ほど危ういものはない。
常に前提条件を確認せよ。
正義は気付かぬうちに侵入している。

私なるもの


「まえがき」の一文目において、考えると言った私とは何者か。
まずは無意識と言われるものについて。

人間の身体はセンサの複合体だとみなすことができる。
各センサに対して情報が入力され、その情報は神経系という
回路において共有される。
各センサへの入力情報だけでなく、そのセンサの位置や方向
といった情報もまた、その回路内で共有される。

情報には元来、意味が付随しないと思われるが、大量の情報を
処理する過程で特徴抽出を行うことは可能であり、
ディープラーニングの成果によれば、その過程は自動化できる。
それを「意味付け」と呼ぶことにする。

センサへの入力情報およびセンサ自体の位置や方向の情報、
それも単一のセンサでなく、複数のセンサの情報を共有した状態で、
意味付けによりそれらを統合すること。
それが無意識であると考えられる。

では、意識とは


無意識によってもかなりの判断が下せるはずであり、それは
本能的と分類される判断に相当する。しかし、「大量の情報」が
ない場合には、こうした意味付けによる判断ができない。
この判断不能という状況を回避するための手段が「理由付け」である。

脳というプロセッサ兼メモリの性能が上がり、情報のバッファ領域が
拡がることで理由付けが可能になる。
それにより新しい種類の判断を行えるようになることが、
生命を維持する上で有利になっているのは間違いない。

この理由付けの過程のことを、意識は意識として意識する。
こうして意識は理由律の呪縛と付き合わざるを得なくなる。

「人間には意識を実装する必要があった」あるいは「人間は無意味で
あることに耐えられない」という伊藤計劃の慧眼に恐れ入る。

無意識も意識も、どこかに存在する何かではない。
コンセンサスという語がcon-sensus=知覚の共有のことなのだとすれば、
無意識も意識も、一つの人体の中で常に生じているコンセンサスのことである。

同一性の問題


特徴抽出における最大の問題は、同一性の問題である。
ある情報と別の情報を、何をもって同一とみなすかはセンサの特性に
大きな影響を受ける。
その点で、あらゆる論理演算の中でXORあるいはXNORが重要になるに違いない。

意味付けには必ずその裏に、ある同一性という正義が埋め込まれる。
その枠組みの中から正義を暴くための「驚異の定理」は存在するだろうか。

現実


現実とは、このようにして身体の中にモデル化される対象となる情報のことである。

その実在性について理由付けを行うのは困難であるが、すべてが意識の中で
処理される現象に過ぎないと考えるよりは、情報も、それを受け取るセンサも実在し、
受け取った情報に意味付けと理由付けを施すことで得られるコンセンサスを
意識とみなしていると考えるほうが健全だと思われる。

VR、そしてAI


VR=Virtual RealityとAI=Artificial Intelligenceは、同一の問題への
異なるアプローチだと思われる。

VRが、センサを固定し、入力情報をパラメタとしているのに対し、
AIは、入力情報を固定し、センサをパラメタとしている。
いずれも、入力情報とセンサからなる系の構造を抽象することを目的と
している点では同じである。

AIにVRを体験させたらどうなるだろうか。
現実が、一連の情報から構築されるものだとすれば、Virtualの各パターン毎に、
それをRealityとして再構築することが可能だと考えられる。
人間もかなり可塑性が高いが、年齢とともに固定化していく。
AIの場合、ハードウェアの可塑性を如何に担保するかという技術的な問題はあるものの、
人間に比べるとはるかに高い可塑性を実現可能だと考えられる。

自然


自然やnatureという単語は、実にいろいろな意味で用いられる。
それを抽象すると、自然とは、意識の不在である、と言える。

ブラックボックス


AI実現へのアプローチとしてディープラーニングが示したのは、
理由付けに対する意味付けの圧倒的な優位性である。

あらゆる判断は理由付けなしに、つまり自然に行うことが最も高速で
正確なものになり得る。
そこに、人間が理解できるかたちでの理屈や理論は存在しない。
しかし、それは人間が人の顔を見たときに、何故それを人の顔として
見ているのかを完全には理解していないのと同じことである。

完全なブラックボックスはいつか自然と同一視されるはずだ。
AIによる人間への影響は、自然環境によるそれと同じものに収束し、
恩恵あるいは災害と呼ぶことが適切になるだろう。
もしそう呼ばないのだとしたら、それは慣れの問題だけである。

こうして手に入れたブラックボックスが自然環境と唯一異なる点は、
より少ないコストで多数回の経験を積むことができる点である。
それは、理由付けするにあたって大いなるアドバンテージとなるはずだ。
もしその時点でも理由付けを必要としているのであればの話だが。

集団


複数の人間が集まり、集団を形成する。
そこでは、一つの人体の中と同じように、コンセンサスをとおして真理が
形成される。
集団を抜きに真理が存在しないのと同程度に、真理の共有なしには
集団は存続できない。
人間が宗教や科学を生み出すのは極めて自然なことのように思われる。

言語


異なる人体同士の間では様々な通信手段が用いられるが、他の動物等と
比較して最も特徴的なものが言語だろう。

意味付けと違い、理由付けを行う場合には、情報を概念というかたちで
まとめる必要があると思われる。
言語抜きでも概念は形成し得るが、パターンの多さとクラスタリングの
明確さにおいて、言語に勝るものはない。
言語を核として概念を結集させる過程は、雪が結晶化するそれに似ている。

そうして形成されていく言語により、人間は自らの内側に、
任意の遅延をとった上で外部からの入力情報を再現し、
それを再び外部に出力することも可能になる。

言語は、コンセンサスを形成するのに用いられると同時に、それ自身に関する
コンセンサスもまた、通信する度に更新されていく。

社会


少なくとも近代以降、個人という概念が発生すると同時に、社会は個人の
集団であるとみなすことが一般的になっている。
いずれもコンセンサスの得られる様を実体化した概念であるが、
あまりにその実体化が行き過ぎ、両者の線引きを頑なに行おうとした結果が、
個人主義や社会主義の諸問題を生んでいるのではないか。
この点では、西も東も、右も左も、五十歩百歩であるように思われる。

宗教と科学


宗教も科学も説明の集合体である。
いずれも理由付けによるものという点で、極めて意識的な営為である。

宗教は、神という抽象された原因をおくことで、あらゆる説明の原点とした。
科学は、コンセンサスによって得られる真理を、可能な限り遠くにおくことで、
宗教への対抗を体現している。

神という大いなる原因は、どれだけ近くにあっても疑いなく真である。
その点で、真理とはコンセンサスによって形成されるという点をよく表している。
しかし、そのコンセンサスは、コンセンサスと呼ぶにはあまりに揺るぎない。

一方、科学的真理は、あまりに遠くにおかれたことで、絶対不変の真理が
存在するという誤解をもたらしやすくなってしまった。

労働


勤労の美徳というものは、仕事をすることがよいことだという正義を掲げないと
人間社会が成立しなかった時代の名残に、いつかなっていく。

そういった方向に変化するかどうかは、技術的な問題よりも、人間自身の問題の
方が遥かに大きい。

あらゆる変化のボトルネックは人間だった。
それは、予測可能性を最大限に持続させようとする意識の特性によるところが大きい。

労働の機械化が進み、ベーシックインカムによって生活ができるような時代がきて、
AIによる共産主義の上に人間が乗っかるような社会が実現したとき、
人間への、というよりは、意識への究極の試練が訪れる。

何もしなくても生きていける世界で、それでも判断機構としての意識を維持することが
どれほど困難を極めるか、想像できるだろうか。

それはかつて痴呆症と呼ばれ、今は認知症と呼ばれている問題に他ならない。

生命


生きることがエントロピーの増加への抵抗なのだとすれば、
意味付けや理由付けによりコンセンサスを形成し、情報の自由度を下げること自体、
生きることそのものだとも言える。

果たして、生命を維持するために情報に意味付けをし始めたのだろうか、
それとも、情報に意味付けをし始めることで、生き始めたのだろうか。

前提

常に前提条件を確認せよ。
正義の枠組みは気付かぬうちに侵入している。

Always be careful about preconditions.
Rightness invades you insidiously.

切り分け

近代科学の徒である現代人は、おそらくそれに気付いていない。
気付いていないというよりも、部分を集積することが全体だと信じている。
An At a NOA 2016-03-21 “部分
と書いたように、科学に限らず、政治や経済等も含め、近代以降の最大の特徴は、
全体を部分に切り分けることができ、それを再構築したモデルで把握できる
という問題設定にあると思う。

一つ一つの身体の中でのコンセンサスと、身体間でのコンセンサスを、
個人と社会というかたちに切り分け、個人が集まることで社会が生まれると想定する。
個人主義と社会主義の違いは、コンセンサスが2種類あるという仮定の下で、
そのバランスの振り方によって生み出される。
個人主義も社会主義もそれぞれに問題を抱えているが、それはコンセンサスに
ある線引きをしなければならないという問題設定からの自然な帰結なのではないか。

人工知能による共産主義の上に人間が乗っかるような
社会であれば、あるいは実現可能かもしれない。
An At a NOA 2016-04-12 “サイバネティックス
ということがもし本当に可能だとすれば、人工知能およびその集合に対して、
そういった切り分けを行わずに済むことによるのかもしれない。

individualはdividualになるのではなく、anti-dividableになっていくのだろうか。

2016-07-04

達観

意識や社会の在り方について考えていると、
一般的な観点からは達観しているという評価が
下されることもあるかもしれないが、
むしろ達観しているのは、様々な判断についての
短絡を受け入れている、一般的な観点の方
なのではないかと思われる。

2016-07-02

あらゆるものは純度が低いことで
存在する意味を与えられている。
というよりも、意味を与える必要が
生じるのは不純さのためだ。

極度に純粋なものだけが、
意味抜きにただ在ることができる。
そして、それが実在に至ることは
おそらくないだろう。

数学的な純粋さがそれである。


Lowness of purity gives meanings to every existence.
Or rather, it is because of impurity that there is
necessity for giving meanings.

Extremely pure things can exist without meanings.
And, it won't be able to exist.

Mathematical purity is it.

2016-07-01

Churchill

敬愛すべきウインストン・チャーチル卿へ

卓見にもあなたが「最悪の形態」と言い放った民主主義は
いまにも崩れかかっています。
あるいはもう…

もう次の段階に進むべきなのでしょうか。


Dear Sir Winston Churchill,

Democracy, which you saw as the worst form with your insightful view,
is about to tumble down.
Or it already...

Should we go up to the next stage now?



通信経路の多様化と通信速度の高速化は
正義の分裂をもたらし得る。
古代ローマ帝国では道が通信路となり、
帝国の一体化に寄与したが、それは通信が
下りに特化していたからだろう。
これは江戸徳川の参勤交代制にも言える。
現代では、上りの通信路も下りと同程度に
機能していると思われる(国によるが)。
下りの通信が正義を固める一方で、
上りの通信は正義を揺るがす。
上りの通信を制御できなくなった正義には
もはや破滅の道しか残されていない。

以上はクライアントサーバモデルでの話だが、
果たしてピアツーピアモデルの集合形態は
現代の大規模な集団でも成立するだろうか。