2016-04-29

chrome on android

今朝androidのchromeをバージョン50.0.2661.89に上げた。

アップデート内容は
バグの修正と高速なパフォーマンスのための改善を行いました
とだけ、しれっと書いてあるのだが、ページ遷移の高速化が凄まじかった。
何だこれっていうレベルで違う。AMPとか関係してるんだろうか。

まあandroidではフラグシップ機にあたるnexusで最新のos使ってるんだから、
このくらいの先鋭感は欲しいところ。

p.s.
と思ったけど、実は変わったのはGoogleアプリの方なのかもしれない。
Google検索のアプリ内で直接ウェブサイト閲覧ができるようになったため、
アプリをスイッチする時間がなくなった分、速くなったと感じるのかもしれん。

2016-04-28

vim +kaoriya on linux

前回vimをコンパイルした際はmercurialを使ったが、
既にgithubに移行して久しいので、gitを使ってlinuxに
+kaoriyaのvimをインストールした。

下記のサイトにほぼ解説が載っているが、githubにある
koronさんのリポジトリ(koron/vim-kaoriya)を使ってやってみる。

参考: ArchLinuxでKaoriya-Vimをビルド(Git版)

1. guiltをインストール
$ git clone https://github.com/koron/guilt.git
$ cd guilt
$ make install
2. vim-kaoriyaをセットアップ
(~) $ git clone https://github.com/koron/vim-kaoriya.git
(~) $ cd vim-kaoriya
(vim-kaoriya) $ git submodule init
(vim-kaoriya) $ git submodule update # 必要なものがいろいろとまとめて入るので便利
(vim-kaoriya/vim) $ cd vim
(vim-kaoriya/vim) $ git checkout master
(vim-kaoriya/vim) $ git checkout -b v7-4-1796-20160428 # 一応branchを切っておく
(vim-kaoriya/vim) $ git config guilt.patchesdir ../patches
(vim-kaoriya/vim) $ guilt init # ../patchesに/v7-4-1796-20160428ができる
(vim-kaoriya/patches) $ cd ../patches
(vim-kaoriya/patches) $ cp master/* v7-4-1796-20160428
(vim-kaoriya/vim/src) $ cd ../vim/src
(vim-kaoriya/vim/src) $ guilt push -a # ここでパッチが当たる。 7.4.1796だと問題が出ない
(vim-kaoriya/vim/src) $ make autoconf
3. vimをコンパイル、インストール
(vim-kaoriya/vim) $ cd ..
(vim-kaoriya/vim) $ ./configure --with-features=huge --enable-gui=gtk2 --enable-multibyte --enable-perlinterp\
 --enable-pythoninterp --enable-rubyinterp --enable-luainterp --with-lua-prefix=/usr --with-luajit --enable-fontset\
 --enable-fail-if-missing
(vim-kaoriya/vim) $ make
(vim-kaoriya/vim) $ sudo make install
$ vim --version
とすると、+kaoriyaでインストールできていることが確かめられる。

・mercurialを使った方法に比べると劇的に楽である。ありがたい。

・参照したサイトでも触れられているが、vim/srcディレクトリで./configureしても
 うまく行くものの、make autoconfの結果が反映されないようだ。
 +migemoでコンパイルしていないので、関係ないのかもしれない。

・普段はgvimを使うので問題ないのだが、端末のvimでの日本語表示が
 できず、◆に?が入った記号が表示される。
 1つ気になるのが、--enable-fontsetでコンパイルしたはずなのに
 バージョンを確認すると-xfontsetになっている点だ。
 これ、関係あるだろうか。

2016-07-15 追記
最後の件、デフォルトのencodingがeuc-jpになっているせいだった。
set encoding=utf-8にすることで解決。

2016-04-27

vimでインクリメント/デクリメントのその後

かつてvimの矩形選択でインクリメントとデクリメントが
できるようになったときに記事を書いた。

そのときは7.4.754で試していて挙動がおかしいと
思う点についてつらつらと書いたのだが、先日7.4.1721で
コンパイルし直したので、同じ内容の操作を試してみた
ところ、すべてのケースで望み通りの結果になるように
修正されていた。
(てっぺんを追いかけているわけじゃないので、どのバージョンで
直ったのかはわからない)

特に、
あと、個人的には、
    0.100
    0.200
    0.300
で1,2,3を矩形選択したときに、
    0.200
    0.300
    0.400
になって欲しい。
の件が反映されていたのは嬉しい。

2016-04-25

訴訟

MicrosoftとGoogle、世界での法的争いを終了すると発表


こういう辺りは本当に賢いと思う。
司法という従来の評価基準に従って運用していたら
いつまで経ってもそこから抜け出すことは不可能だ。
テック企業として、変わるべき方向を示しながら、
既存の仕組みと整合性を保つのは重要だが、
それに迎合しているようでは次の時代の基準になる
素質はないと感じられる。

彼らが、これまで用意されてきた土俵とは違う場所で
競争するようになれば、国を本格的に置いてきぼりにできるだろう。

2016-04-22

デジタル教科書

デジタル教科書が2020年度から導入されるらしい。
日経新聞の記事


技術の変化が常に先行し、人間はそれに合わせて変化
してきたことを考えると、電子書籍の本格的な普及は
こういったところから始まるのかもしれない。

文字の読み書きを端末で覚えた世代でも、紙の本に
利点を見出すようであれば、紙はまだまだ生き残れるだろうが、
果たしてどうなるだろうか。

書く(というか出力する)方では読む方に比べて電子化が
進んでいるように思えるが、「読み書き」ではなく「読み打ち」
とかになっていくだろうか。
電子的には人間から手書きで出力して端末側でクラスタリングして
文字列データに変換するよりも、直接文字列データを打ち込む方が
処理は速い。現状は端末側に文字認識や音声認識のフィルタを
実装する流れも大きいが、人間側にインプットメソッドを実装する
ことも、magic leapなんかはやりかねない。

もう教科書に鉛筆で落書きをすることもなくなるのかね。

2016-04-21

理解

「すべてがFになる」の冒頭で、真賀田四季は
「真実というものは他人の理解とは無関係です」
と言った。

事実をありのままに伝えるというのはそもそも
不可能なので仕方ないが、世の中あまりにも
他人からの報告に振り回され過ぎだと感じる。

昔は情報源が少なかったために、振り回されている
ことに気づくことも少なかったが、ウェブサイト、
twitter等、有象無象の情報源ができたことで、
右を向いては左を向くの繰り返しである。

善意がデマを拡散する結果となった、と言われる
こともあるが、善意とは極めて主観的な評価であり、
自分の善意は必ずしも他人のものとは一致しないし、
善意への狂信が悪意への狂信よりも悪質な可能性が
あるのは、正義と悪の場合と同様である。

本当に重要なことは拙速に決める必要はない。
そもそも2値で決められないことも多いのに、
自らわざわざ2クラス問題に落としこむことはないのだ。

2016-04-20

magic leap 2

Magic Leapに関する続報がWIREDに上がっている。

http://video.wired.com/watch/making-sense-of-the-new-reality
http://video.wired.com/watch/inside-magic-leap
http://video.wired.com/watch/magicleaptwo

うーん、こういうのを見ているとヘッドマウントディスプレイタイプの
VR、ARデバイスは、かつての肩掛け式の携帯電話みたいな
ものなんじゃないかと思えてくる。

人間への入力は解決可能に思えるが、人間からデバイスへの
出力はどうするんだろうか。
視線や脳波等による出力は(前にも書いたが)ノイズのフィルタリングが
難しいように思える。

攻殻機動隊では笑い男が視覚を奪いながら逃走したが、
そんな犯罪もいつか本当に起きるかもしれんね。

自治寮

京大・吉田寮で寝ていたら右翼に襲撃された思い出


京大の吉田寮についての記事。
東大にもかつて駒場寮があったが、入学したときには
とっくになくなっていた。

この記事の結論がよい。
そして、そういった危険で不愉快な「謎の人間」無しに、エリートだけを作り出すことは不可能なのです。なぜなら、エリートとは、複合的な視野を持った自立した人間であるからです。清潔で均一で無個性な無菌室からは、エリートは決して生まれません。
均一な教育から生まれた擬エリートは面白くないだけでなく
危険ですらある。

試しの門

ハンター×ハンターが連載再開したらしい。
まだ読んでいない。

そういえば、ゾルディック家の試しの門を物理的に実装するには
どうしたらよいだろうか。
加えた力の大きさに応じて、より大きい荷重に対してより大きい扉が
開くような仕組みだ。

各扉を完全剛塑性のヒンジで接合することを考える。
ある曲げモーメント以下では相対回転角を生じず、降伏モーメントを
超えるモーメントに対しては回転剛性が0であるようなヒンジだ。
加えた力によるモーメントが当該ヒンジの降伏モーメント以下であれば
変形角を生じずに次の扉に力を伝えるので、当該扉は開かず、
次の扉が開くことになる。

ここで問題になるのは、載荷点からヒンジまでの距離と各ヒンジの
降伏モーメントの設定である。
荷重をP、載荷点からi番目のヒンジまでの距離をL[i]、i番目のヒンジの
降伏モーメントをM[i]としたとき、
for i := range doors {
    if P * L[i] <= M[i] {
        continue
    } else {
        open(doors[i])
        break
    }
}
となるので、P=M[i]/L[i]が当該扉を開閉するための閾値となる。
試しの門の一の扉は、片方2tfの力で開き、大きさは両方でレオリオの
身長(193cm)くらいだから載荷点からヒンジまで1mとすると、
M[1]=P[1]×L[1]=2tfmというところだ。

この値について内側から降順に並べることで試しの門と逆の方式は
容易に実装できる。つまり、加えた力が大きいほど内側の小さい扉が
開くような門だ。
載荷速度が遅いと一旦はヒンジを介して力が伝わってしまうので、
まわりの扉も動いてしまうが、最大荷重時にはヒンジを介して力が
伝わらなくなるので、ヒンジに原点志向の復元力を持たせることで
解決できるだろう。

昇順に並べた場合、小さい力で内側の扉が開くことは再現できるが、
より大きな扉を開くときには内側の扉がすべて開いてしまうことになり、
この方式ではうまくいかない。
うーん、富樫先生はどう考えてたんだろう。

有限性の後で

カンタン・メイヤスーの「有限性の後で」を読んだ。

ここ数年考えている、次のようなことと通じるところが多い。


理由律を棄却し、非理由律を絶対化するという点は、
意識あるいは思考は理由付けによって生まれ、
逆にそれらが存在しない状態には理由などないと思われることと共通する。
個人的には、科学もまた理由律に縛られた存在だと思うが、
オッカムの剃刀により神を極限までそぎ落とし、無限遠に
設置しようと努めることで絶対的な存在を忌避しているように見える。

事実性は試行によって、またそれによってしか解空間を拡げることができない。
科学は可能な限り実験という極めて厳密な経験を観測することで、事実性の枠を
拡げ続けているが、精度、回数等の制限上、どうしても事実性のみで覆い尽くす
ことが不可能である。
そこであるモデル化を採用する。端的に言えば理由付けだ。
数学もまた、ウィーナーの言葉を借りれば、ブラックボックスの隣に置かれた
ホワイトボックスに過ぎない。
観測の精度と回数を改善することでモデルは洗練されていくが、それを祖先以前的な
ものに拡張できるのは、エルゴード仮説に依拠しているのではないのだろうか。

何はともあれ、本書で展開される思弁的実在論は、哲学よりははるかに科学に
親しんできた人間にとってはとても受け入れやすい論理だと感じられる。
メイヤスーの説明もかなり噛み砕かれているし、翻訳もすばらしい。
カント以来の相関主義をちゃんと勉強したことがないので、それらを概観することが
できる点でもとてもよい。

しかし、無矛盾律と非理由律のみが絶対化される世界について、論理展開のみで
その真性を示すことなんてできるのだろうか。
四色定理の証明のようなかたちをとることになるのかもしれない。
(「容疑者Xの献身」で石神が言ったように、四色定理の証明を美しくないと
感じる人間は一定数いるだろう。理由律の圧倒的支配の一端が垣間見える。)
その証明を行うのは人間ではなく人工知能になるかもしれないが、
理由律の上に編まれているように見える意識はそこから何かを得られるだろうか。

p.s.
先日書籍部に「カーネル多変量解析」を買いに行った折に
UPの4月号をもらって帰った。
その中に「有限性の後で」を紹介する記事があり、興味をもったので
読むに至ったのであった。
同冊子には小坂井敏晶先生による「神の亡霊」という連載が載っており、
これもとても面白いのだが、残念ながら4月号が最終回とのこと。
この連載を書籍としてまとめて出版してくれないだろうか。

好き嫌い

鋤で機雷を破壊する。
Mine sweeper with a spade.

2016-04-19

即時

即時的なコミュニケーションだけでは、おそらくここで言われているような
母国語の言語技術や科学的な思考法は中々身につかない。
こういったものが必要だと考えるのも近代科学を正義とした場合なの
だろうが、少なくともこれらを備えていない人間よりは備えた人間との
方が話をしたいと思える。

メールよりもチャット、ブログよりもTwitterというかたちで、流行は移っている。
導入障壁の低さが勝因なのだろうが、いずれも後者の方が前者よりも
即時的なツールだと感じられる。
(そういえば、前者にはあって後者にはないものの一つに、タイトル付けがある。
現代っ子はタイトルを付けなくなっているという話をそのうち書きたかったのであった)

即時性は同時性につながりやすい分、流行りやすいと同時にそこでの情報交換は
廃れやすいと思われる。
言語には記号的な側面と音楽的な側面があると思うが、
記号的な側面はどちらかというと情報の永続化につながっており、
音楽的な側面はどちらかというと情報の即時的伝達につながっていると感じられる。
即時的コミュニケーションの極限の先に音楽が待っているのだとすれば、
やはり言葉よりも音楽の方が先に生まれており、即時性を重視する現代は
先祖返りをし始めているのかもしれない。

事後評価

大阪市営バスの震災支援に称賛の声


「1分で感動」という安いタイトルがやや残念だが、内容自体がよいことであるのには違いない。

ただ、評価というのは必ず当該事象の後に確定する。

この件で言えば、もし東日本大震災の数日後に近畿圏で同規模の災害が発生したと想定すると、本来大阪の人間に渡るはずだった物資がなくなるという状況を引き起こすことになり、評価を変える人間も出てきただろう。

事前評価に比べて事後評価の方が幅が狭くなるのはある意味当然だが、必要以上に幅を狭めていないだろうか。あるいは、そもそも幅を狭める必要もないのではないか。

常に違う正義が存在しえたことを想像できない世界というのは、入力データの檻に囲まれたディストピアである。

2016-04-18

情報幾何

「情報幾何」という分野があることを知り、早速書籍部で
「情報幾何学の基礎」を読んでみる。
残念ながら「情報幾何学の新展開」の方はなかったので、
サイエンス社で注文した。
うーん、微分幾何学まで絡んでくるのか。勉強せねば。

しかし謎なのが、どうやってこの「情報幾何」というワードに
辿り着いたかだ。
chromeの履歴をあさっても、amazonの「情報幾何学の基礎」の
リンクが最初で、その後「情報幾何」でググっている。
その前の履歴を見ても、それらしきリンクがありそうなサイトが
ないからますます謎が深まるばかりだ。

ちょっと怖いが、こういう発見があるあたり、書店を訪れる体験に
近いものがある。
amazon student会員だと書籍に10%のポイントがつくので、
ほとんど書店で買わなくなった。
そのうち、書店にも行かなくなってしまうだろうか。

プログラミング教育

義務教育課程でのプログラミング教育の是非について。

個人的には現状の価値観が変わらないのであれば、
教育とプログラミングはとても相性が悪いと思う。
プログラマの三大美徳というのは学校で教わる道徳教育とは
相容れない。

わずか6年程度ではあるが、個人的な経験の中で、プログラミング
する動機は大きく分けて2つあると感じている。
1つは三大美徳よろしく何かの作業の負担を軽減したいとき、
もう1つは純粋にプログラミング自体をしたいときだ。

子供が「何のために○○なんて勉強するの?」と質問することが
多いと感じるのは単なるステレオタイプかもしれないが、
理由をつけないことには何もできないというのはとても人間らしい。
(○○に入る科目の人気No.1は算数、数学かもしれないが、
数多くの科目の中で最も論理的思考に依拠するであろう算数と数学が、
論理的思考による抵抗を受けるというのは皮肉的である)

上に挙げたプログラミングの1つ目の目的とは、突き詰めれば
人間がいかに仕事をせずにすむかという怠惰にある。
理由を与えなければ動機が生まれないような教育しかできない状況で、
いかにして道徳観とすり合わせていくかというのは非常な困難を
伴うのではないかと思う。

理由抜きに興味を引き立てられるような教育プログラムが組めるに
越したことはないだろうが、プログラミング教育の目的を議論している
ようでは到底望めない。
道徳観を変えて、勤労の義務をなくしにかかる方がよっぽど安易な方法だろう。

メディアリテラシー等、情報教育の中でも今後必須になっていく分野が
あることには同意するが、プログラミングがその中に入るには、
常識や道徳観のような既往の教育の変化も必要になると思うので、
その辺まで込みで考えてほしいと思う。
単純にプログラミング教育を足しただけではほぼ間違いなく失敗する。

2016-04-17

電子書籍3

電子書籍シリーズ。
1 2 ?

電子書籍でも、フォントサイズと行間を調整することで
紙の書籍と近い体験が得られるなと感じる今日このごろ。

紙の書籍と電子書籍の一番の違いは直接光と反射光の
違いかと思っていたが、むしろ余計な反射光が存在するか
どうかなのかもしれないと、ふと思いついた。

電子書籍の画面が光を発していること以上に、周囲の
光を反射していることの方が影響が大きいんじゃないか。
ということで、手元に薄板の化学強化ガラスがあったので、
紙の本にそれを載せてみる。
うーん、画面に反射される周囲の光が視界に入ってくる
というのは再現出来たが、今一だな。

でも、この反射光が読書への集中を妨げるという影響は
考えられるかもしれない。
小説等の長い文書が光沢紙で読まれるというケースは
あまりないのではないかと思う。
逆に、ファッション雑誌等、光沢紙が使われるような紙の書籍は、
電子化してもスムーズに受け入れられるのではないか。

光沢紙とマット紙の使い分けが出版業界でどのように行われて
いるのかは興味深いが、個人的な経験則としては、現実世界との
つながりが強い内容の書籍では光沢紙が使われやすいのでは
ないかと思う。

書籍の世界観の中に、現実の世界の情報が重なってくる
というのは非常に邪魔に感じられ、そういうことを望まない種類の
書籍では紙の優位性が揺るがないというのはありえると考えられる。

2016-04-15

インフラの解放

熊本地震「LINE通話を10分無料」は大問題だ


上記の東洋経済オンラインの記事のコメント欄を見ると、
記事の意見に反対の人間の方が多いようだ。

これは何をインフラと考えるかで立場が変わるのではないかと思う。
インターネットをインフラだと見る人は、LINEという特定の1社が
インフラの一部を占拠することで他の通信を圧迫するような事態を
引き起こす可能性を指摘することで、LINEの対応を問題視している。
LINEをインフラだと見る人は、災害時のインフラの無料解放と解釈
することでLINEに肯定的な反応を示している。
後者にとってはインフラが拡大しているが、前者にとってはむしろ
インフラは縮小している点が意見の違いを生むのだろう。
いずれもインフラだとみなさない人はおそらく議論に参加していない。

LINE Outという機能がインターネット回線と電話回線のどちらを
使っているのかもよくわかっていないので、上記の議論は間違っている
かもしれないが、大筋としてはこんなところだろう。

それにしても、こういう記事とそれに対する反応を見ていていつも思うのは、
とても疲れるということだ。
FacebookのコメントにしろTwitterにしろ、とても短い文章の中で
意見を言おうとするものだから、論理を組み立てようという気がないものも
多く、議論の形態になることなど望むべくもない。
要は肯定派も否定派も茶々入れにしか見えないのだ。
それが今の新しい世論の形成の仕方なのかもしれないが、そういうものに
振り回されるのはとても大変だろうなと思われる。

2016-04-13

総長挨拶

昨日の学部入学式での総長挨拶を読んだ。
全文


「第一の基礎力」として、「自ら原理に立ち戻って考える力」を
挙げ、「真の知識は人が自ら経験し思考することによって生み
出されるもの」と言っているのはもっともだと思うが、
後半で「新聞を読みますか?」と問いかけ、インターネットや
ニュースだけでなく新聞をよく読もうと言っているあたりは
うーんという感じだ。
メディア全般について、どれが優れていてどれが劣っているというのは
今の世の中では大差がないと思う。twitterにはtwitterなりの情報が
流れているし、新聞には新聞なりの情報が書かれている、というだけだ。
単一のソースを信頼するのが危険なことはわかりきっているのだから、
「自ら経験し思考すること」が大事だと言っているのではないのか。
その中で敢えて新聞を取り上げて、旧来のメディアが優れているような
言い方をするのは少し的外れな気がするし、当然このニュースを取り上げる
新聞社はここを切り取るから、より歪んだかたちで伝わることになる。

あと、「第三の基礎力」として「自ら新しい発想を生み出す力」の中で、
ロボットができるのは過去の知識をベースとした仕事です。人間には、
思いがけない発想によって無から有を生み出す能力があります。
と言っているが、これは果たして本当なのだろうか。
前半は今のところ真である。でも、人間は本当に入力された情報からは
演繹できないような思考をしているのだろうか。
もしそのように思考しており、それが偶発性によるものだとするのであれば、
それは機械にも思考法として取り込むことが可能だ。
両者の違いをことさらに強調するのは人間らしいが、そんなことに拘泥している
ことで、「自ら新しい発想を生み出す力」が手に入れられるのだろうか。

総長が言うように、画一な社会をめざすべきではないのは確かだと思う。
だからこそ、上記のような常識という思考の短絡は避けるべきである。

「他人に何かを押し付けるのはよくない」や「この世に絶対の真理などない」のような
命題と同じで、それ自身をも否定することになるのでこういった主張を展開するのは
難しいが、まあ各々考えるのを楽しもうということだ。

p.s.
…なんていう記事を書いてコーヒーを飲みながらスマートフォンを
いじっていたらこんな記事を見つけた。
東大総長は新入生に「新聞を読むこと」を勧めたかったのか
こういう視点の記事も見つかるのがインターネット経由の情報収集のよいところだ。
いつだかの総長式辞で、その式辞自体の信ぴょう性も自分自身で確かめるように、
という言葉で締めくくられたものがあったと思ったが、どれだっただろうか。
→教養学部長の石井先生の式辞だった。(全文
 今読み返してもとても面白い。こういうウィットに富んだ挨拶ができるようでありたい。

2016-04-12

サイバネティックス

ノーバート・ウィーナーのサイバネティックスを読んだ。


原著は1948年に出版とあるが、とても70年前に書かれたとは
思えないくらい、最近自分が考えていることと共通する点が多い。
それだけ自分の考えがまだまだ遅れているんだろう。

以下、引用はすべて岩波文庫の本書による。


■機械が仕事を肩代わりすることについて
しかしながら奴隷労働と競争する条件を受けいれる労働は、
どんなものであっても奴隷労働の条件を受けいれることであり、
それは本質において奴隷労働にほかならない。
ウィーナー「サイバネティックス」p.74
この言葉に引き続き、機械が人間の仕事を代行することが
「ひじょうな福祉」なのか「私にはわからない」ことであり、
「機械による新しい可能性」を「それによって儲かった金で
評価すべきものではない」と述べている。

人間の仕事を機械で置き換える程度の限界は、資本主義から
脱却しなければ拡がってはいかないのかもしれない。
金融取引ではもはや人工知能が判断を下し、人間は操作を
行うだけという話も聞く。もはや人間が機械の一部として機能を
補填する役割になるような業種はこれからもっと増えるだろう。
資本主義の枠組みの中では、ウィーナーの言うように、奴隷であることを
甘受しなければ機械に仕事を明け渡せないのかもしれない。

人間は共産主義に合意できるほどに賢くはなかったが、
人工知能による共産主義の上に人間が乗っかるような
社会であれば、あるいは実現可能かもしれない。
それは、帝国主義時代の奴隷と支配者の関係にも近いかもしれないが、
果たしてどちらが奴隷になるだろうか。


■時間について
ニュートン的な可逆的時間とギブス的な不可逆的時間について。
人間も自動機械も、その多くは「印象の受容と、動作の遂行とで
外界と連絡している」。(p.101)
それは通信の理論として取り扱うことが可能で、通信工学では
入力、出力とも統計的な情報として扱われることから、非可逆的な
時間に属するものとしている。
第1章最後の言葉が印象的だ。
機械論者ー生気論者間の論争はすべて、問題の提出の仕方が拙かったために
生じたものであって、すでに忘却の淵に葬り去られたのである。
同p.102

■ビットについて
第5章は情報の表現の仕方についての記述で始まる。(p.225)
2進数で情報を表すのが意味のある表現方法の中で最も原価の
低い方式であることを示す過程が鮮やかだった。
そういえば、2進、10進、12進はどの順番で誕生したのだろう。


■現在について
記憶の実装の仕方を回路として記述している部分で、
「見掛け上の現在」という言葉が出てくる。(p.235)
どのようにして「現在」という感覚が実現されているのかは
とても興味深い。
ウィーナーが指摘するように、ある外界からのインパルスを閉じた回路内で
循環させることで受容し、それが残っている間を「現在」と認識しているので
あれば、同地性よりも同時性が重視される理由がわかる。

回路にとって、大容量のバッファを確保しておくのは大変なコストになるから、
同時として認識できる情報量はそれほど多くはないはずだ。
それらのうち、(一時的なものや長期的なものを含め)記憶として残しておくのは
極一部になるだろう。
同時として認識できる程度の時間内でのコミュニケーションであれば、
より多くの情報が伝達できたと感じられるし、実際に伝達できる可能性も高い。
同地性を解消するためのコミュニケーション手段ではまだまだ多くの情報がフィルタ
されていると感じられるが、それは通信速度と処理速度の問題だけであって、
解決可能だ。しかし、同時性を解消するコミュニケーションは、人間の内部に
埋め込まれた回路による制限を受ける。
人工知能であれば、例えばある時点のメモリをスタックに積み、任意の時間後に
復元することでこの制限を回避できるだろう。
彼らにとって、果たして同時あるいは現在とは何を意味するのだろうか。


■老衰について
生命自体がわれわれの生命力の蓄積を浪費する前に、学習と記憶の過程そのものが、
われわれの学習能力や記憶力を使いはたしてしまうことになるであろう。
同p.240
という内容を、「ある種の老衰に対する一つの可能な説明」として取り上げている。
これは、忘却あるいは痴呆により、意識が意識自身を保とうとする機構についての
考察と近いものを感じる。
第7章で扱われる精神病理学の問題も同様だ。


■社会について
器官があまりに高度に専門化すると効率が減退し、ついには種の消滅にいたるという、
自然の限界がある。その一つにわれわれが直面しているのかもしれない。
同p.292
という第7章の末尾の指摘に続き、第8章では集団と個体がそれぞれにもつ情報量について
展開される。その中で、共同社会の範囲として、「情報が効果をもって伝達される範囲」
というものが挙げられている。(p.298)
個人の行動が、他の個人にどれだけ影響するか、という尺度を採用したとき、
現代における共同社会は、奇妙なかたちで広がりかつ狭まっている。
それは、個人が分裂していることの最大の現れなのだろう。
専門分化した社会ではより一層情報伝達を密にしなければ、個人として情報を蓄えるばかりで
集団としての情報が増えていかない。
専門分化と同じ速度でコミュニケーション手段が発達してきたとは到底思えないが、
果たして追いつけるだろうか。
すべての社会を構成している一人一人の人間においては、その内部における情報組織(神経系)は、
社会のそれよりもずっとよいのは言うまでもない。オオカミの群ほどとは思いたくないが、
国はたいていの成員よりも愚かである。
同p.305

■学習する機械、増殖する機械
第9章では個体の学習と種族的な学習にあたる増殖を題材に、人工知能の話題が
取り上げられる。
プログラムは本当に正直にプログラムされたとおりに動く。それ以上でもそれ以下でもない。
この、「それ以上でもそれ以下でもない」という範囲を人間が制御できる間は、
要件定義の煩わしさはあるものの、ある意味では安心だろう。
どこまでどんな要求を設定したのかがわからない状態ほど空恐ろしいことはない。


最後に、文庫版に寄せられた大澤真幸の解説の中で、ヘーゲルによる「理性の狡知」の
話が出てくる。
「理性」なるものが、特定の目標をもってあらかじめ存在しているわけではない。理性の狡知は、
結果的・事後的に実現するのである。
同p.413
という部分が最近考えていた意識の在り方に通ずる。

理由を追い求める姿勢の中にこそ意識が生まれ、その姿勢のことを意識として意識しているのだ。

p.s.
そういえば、本書ではparameterが「パラメター」と書かれている。
「パラメータ」と表記されることも多く、自分でも使ってしまうが、あれは何でなんだろうか。
英語では2つめのaにアクセントがきて、1つめのeはいわゆる曖昧母音であるから、
「メー」と伸ばされることはおそらくないと思われる。
「パラーメタ」と書かれるのは見たことがないが、「パラメタ」「パラメター」あたりが
妥当なんじゃなかろうか。

2016-04-11

ふへん

不変とは、時間的に一定であること、
普遍とは、空間的に一定であること、
である。
どちらもconstantを意味するが、
不変はeternal、普遍はuniversalである。

2016-04-10

E700M

ONKYOのイヤホンE700Mがすばらしい。

これをしてBrad MehldauやJoshua Redmanの
ライブ録音を聴いていると作業の手が止まるレベルだ。
「あるがまま」具合が尋常じゃない。

Spirit Of The Momentを聴いてわくわくしたのは久々だ。

2016-04-09

10 years solo

Brad Mehldauの10 years soloのCDが発売されていた。

本当に久々に聴き入りたい音楽に出会った。
当初は確かアナログ盤しかアナウンスされていなくてスルーして
いた記憶がある。

やはりBrad Mehldauの音楽はソロの方が好みである。
トリオの生演奏をサントリーホールに聴きに行ってからもうすぐ4年か。
ソロでも来日しないだろうか。

固有値解析への補遺

先日の固有値解析への補遺。

この間のコードには諸々欠点があった。

  1. A'=A-λBとしてA'の二次形式をつくるときに外力ベクトルをそのまま使っている。
  2. しかも1本のベクトルについてしか二次形式を計算していない
  3. 外力ベクトルを使っているせいで変な判定が必要になっている
本来はマトリクスと同じ次元の正規直交基底について二次形式をとり、
その正負の数をカウントするのが正しい。
元論文ではPCG法の最中に正規直交基底が得られるので、それを利用しているが、
修正Cholesky分解ではそれが出てこない。
そこで、当初はmath/randのFloat64()を使ってベクトルを作り、Gram-Schmidtの
直交化を施して正規直交基底を作っていたが、どうにも上手くいかない。
たまに一次固有値をスキップしてしまうケースが見られた。
うーむと思ってWikipediaの正規直交基底のページに行ってみると、
ベクトルの集合 {e1 = (1, 0, 0), e2 = (0, 1, 0), e3 = (0, 0, 1)} は R3 の正規直交基底を成す(標準基底)。
の文字が。
そりゃそうですよね、ということで、標準基底を採用する。
正規直交基底を生成する時間もほぼゼロな上に、誤差の蓄積による直交化のずれも
ないので、一次固有値をスキップする現象にまだ遭遇していない。

多数本のベクトルについて二次形式を求めるときにも、修正Cholesky分解は
λの各試行値につき1回だけやっておき、あとは前進消去後退代入だけやればよい。
前進消去後退代入は1本ずつ行い、所定の数の負の二次形式が見つかったら
次のステップに行けるので、λが真の固有値よりも大きいケースでは比較的少ない
計算量で試行が終わる。

固有ベクトルは乱数生成で得たベクトルを用いて計算しているが、λが真の固有値より
小さい場合だけ計算すればよいのと、すでに修正Cholesky分解は終わっているので、
計算コストはかなり少ない。

新しいコードは下記のとおり。

人間のように学習し思考する機械

Building Machines That Learn and Think Like People
という論文がarXivに上がっている。

アブストラクトしか読んでいないが、果たしてここに書かれているような
 (a)理屈や理解をサポートするようなcausal modelを構築すること
 (b)物理学や心理学の基礎を学ぶこと
は重要なのだろうか。
(a)は単なるパターン認識ではなく、理屈があることの方がよいという
前提の基に提案されているが、それは人間の都合なのでは。
(b)に関しても、理由や理論はすべて単なるモデル化に過ぎないのだから、
人間が構築したものを新しい知能に押し付けることがよいことなのかは疑問だ。

結局、できあがった人工知能がブラックボックスになっては、毒にも薬にも
ならないという思いが強いのだろう。むしろ、毒にはなっても薬にはならない
という被害妄想が強い気がする。
実際には、自然と同じように、恩恵も災害ももたらすような、毒でも薬でも
あるようなもの、というのがイメージには合う。
自然と同じでは結局現状と変わらないと思うかもしれないが、低コストで高サイクルに
経験を積めるというのは、理屈を構築するにあたっては重要な違いだ。

人間と同じような意識を実装したいのであれば、この論文のような方向性は
ありかもしれないが、果たして意識を手に入れたいのだろうか。

2016-04-07

自然災害

高度に進化した人工知能は理由による追跡が
不可能なブラックボックスとなり、無意識すなわち自然となる。
このような人工知能が引き起こす人間にとっての不利益は、
いつか自然災害として扱われるようになるだろう。

そうなれば、自動運転車の事故の責任が問われることは
やがてこなくなるはずだ。

2016-04-05

様式美

あるものが、何故それがよいのかを説明されても
なお感銘を受けられるものには、もれなく様式美が
備わっていると思う。

お笑いで言えば、歌舞伎や落語はもちろんのこと、
ダチョウ倶楽部の芸も、特定の世代にとっては
様式美を備えた伝統芸能の一種だと言える。

このように、理屈による部分への解体に耐えられるだけの
形式をつくるということを、一人の人間が一生のうちに
成し遂げるというのはものすごく難しい。
時間の制約上、単純に試行回数が足りないのだ。

歴史は繰り返されることでかたちが定まっていき、
やがて伝統になる。
歴史に語り手がいることから、必然的に伝統も語り手を
背負うことになるが、いろいろな語り手が繰り返し語ることで
語り手の存在自体はすり減っていく。
いつしかその背後にいる語り手が消えたとき、伝統が生まれている。

人工知能が膨大な学習の末に得ているものは、ある種の伝統だろうか。
訓練データの背後に存在する正義は消えることがあるのだろうか。

2016-04-03

御柱祭2016

諏訪大社上社の御柱祭に参加してきた。
全力を発揮すると翌日に筋肉痛がくる程度には
まだ代謝が落ちていないようだ。

前回の2010年にも参加して、そのときは木落としを
やらせてもらったのだが、今回は本宮四ノ柱の山出し
前半部分の曳行をやらせてもらった。
4/2朝7:30曳行開始。やや雲はあるものの晴れ間が
広がり、東の空には八ヶ岳が気持よくそびえていた。

綱置場〜一番塚〜柳沢の交差点あたりまではかなり平和で、
日本酒やビールを飲みながらヨイサと声を出す。
辛かったのは土埃くらいだ。

柳沢では男綱が外になるが、その内側にいたので、
男綱が内側に入るのを阻止するために全力で押す。
今見返すと全然角度がきつくないのだが、ダメージはでかい。
そこからはカーブの連続で、男綱が外なら足で押す、
内なら全体重を載せて引く、の繰り返し。
腕よりも小綱を握る手の痛みの方が辛い。
大曲がりを曲がりきる直前でタイムアップで離脱。
土埃と汗で体中真っ黒だった。

柳沢あたりから力を使うようになってわかったが、
掛け声と音楽はあるべくして存在している。
本当に力を発揮しようと思ったら声を出さないと出きらないし、
その力を全員が合わせないと寸分動かないのだから、
タイミングとりに掛け声は最適だ。
やっとこさ動いた後であの音楽が流れるとものすごく気持ちがよい。


御柱祭は数えで7年に1回行われる。
徐々に変化はしているようだが、大枠としては1000年近く
同じままなのだろう。
山から切り出した10tもの大木を人力で神社まで運ぶなんて、
現代の常識で考えれば馬鹿みたいな行為だ。
それを、死者が出てまでも形式を保存するというところに、
ある種の人間らしさがあるのだろう。

意味など存在しなくてよいのだ。理由はいくらでも後付けできるだろうが、
純粋にその形式を引き継ぐこと自体が、一つの全体を作っている。
理屈を積み上げてできたものは、おそらく1000年も続かない。
歴史とは語られた経験であるが、伝統とは語り手が消えた歴史なのかもしれない。


2016-04-01

shiny fluid example

昨日shinyに追加されたfluid dynamicsのexampleが
とてもgolangらしくてよい。

・main()はイベント処理に集中、図の作成は別のgoroutineで行う
・Crosses(StageVisible)で表示中かどうかの判定
・マウスイベントや図の情報は共有データとし、MutexでLock/Unlock
・表示中はtickerで60Hz毎にsimulate()を回す
 (1/60秒毎に発火するchannelを使用)
・非表示中は短絡させ、simulateを行わないようにする
・図ができたらchannel経由でイベントを送る
 (マウスやキーボードのイベントと同列で他のgoroutineがイベントを発火できる)

特に最後のポイントは結構肝だと思っている。
これまでいくつかのGUIライブラリを触ってきたが、
golangでchannel経由のイベント処理をちゃんと実装して
いたものはなく、ほとんどがコールバックだった。

stでもchannelでイベント処理の振り分けを行っているが、
こういうことができると全体の見通しがよくなってすてきだ。

スーホ

スーホの白い馬
すーほのしろいうま
いまほーすのうしろ
今ホースの後ろ

April Fool

April Fool
I proof all ←大丈夫ですかねぇ

エイプリルフール
増えるプール入り