2016-03-31

ガウス

数学の落とし穴。足遠のくガウス。
すうがくのおとしあなあしとおのくがうす

A or B


ちょっと前にこの種の画像が話題になった。

画像認識では画像と正否がセットになって教育データになる。
そこには、「こういうものが犬だ」というある種の正義が埋め込まれる。

犬の画像を撮ってそれを正解データとする場合と、
あらゆる画像の中から犬のものを選んで正解データとする場合とでは
何か違いがあるだろうか。

こういう画像を見せられると、後者では意図せず不正解が紛れ込む
可能性があることを痛感させられる。
前者であれば、撮影者にとっては時刻歴データが多数取得できるので、
判断が狂う可能性がかなり減るが、後者のように限られた情報の中で
選択するケースでは、その画像を用意した存在の意図が介入することで、
最終的なデータになるまでに2種類の正義のフィルタを経由する可能性がある。

犬と犬の人形の違いくらいならかわいいものだが、
世の中には唐揚げをラブラドゥードルに仕立て上げる言説も
ままみられるから困ったものだ。

ゼロレーティング

LINE Mobileが物議を醸すという話


この手法、ゼロレーティングという名前がついてたのね。

記事中では通信の中立性という言葉が出てくるが、
連邦通信委員会(FCC)がそれに対して規制をかけているというのが
どうなんだろうとは思う。
通信によりどんなデータを享受するかというのは個々人が
気にかけるべきところだ。
仮にこういったサービスでTwitterやFacebookのみからしか
情報を得ないようになる人間は、Tayの一件から何も学んでいない。
そしてそれはこれまでのテレビと新聞の業界にも同じことが言える。

それにしても、LINEに加えてFacebookとTwitterも無料になるプランが
``Unlimited'' Communicationという名前なのも、なんとも皮肉的でよい。

2016-03-26

振る舞い



最大公約数的に振る舞うとあいつには意見がないと言われ、
最小公倍数的に振る舞うとあいつは八方美人だと言われる。

炎上を避けるには前者にとどまるのがよいのかもしれないが、
立場によってはそうとも限らない。

最小公約数的に振る舞うのはある意味で真理かもしれない。

朧月夜2

里わの火影も、森の色も、
Village lighting, colour of forest,
田中の小路を、たどる人も、
road in paddy field, a man going,
蛙のなくねも、かねの音も、
toad croaking, bell ringing,
さながら霞める、朧月夜。
All are just like, a misty moon.

2016-03-25

以上、以下は当該要素を含むのに対し、
未満は当該要素を含まない。
未満に対応する、「当該要素を含まずにそれよりも上」には
二字熟語がないのが惜しいが、今日の本題はそこではない。

以内はよいのだ。当該要素を含んでいる。
なぜ、以外は当該要素を含まないのか。

なぜ、10秒以内と10秒以外では文脈が全く違ってしまうのだろう。

Tay

Tayの停止についてのTechCrunchの記事

「機械学習の問題点」というタイトルがついているが、
これって別に機械学習に限らない。
入力されたデータセットの中でしか演算できていないというだけで、
人間もどんぐりの背比べな可能性もある。

そういった差別等を中心に入力データが構成されていれば、
学習者にとってはそれが正義になる。
人間でも、どういった種類の(広い意味での)教育者に接するかは大事である。

twitter等のdivideされた人間を入力データにするのは、
Tayにとっては時期尚早だったのだろう。
現状の正義にかなうような正義をもった人工知能が欲しいのであれば、
まずはそういった入力データを与えてくれる情報源を教師に選ぶべきだ。

オフラインでindividualな人間から学んだ後で、再びTayがdivideされた
人間の世界に戻ってくるのを楽しみにしておこう。
ただし、今回のニュースほど興味深い結果は得られないだろうが。

2016-03-21

部分

自然が意識の不在であり、意識が理由付けによって
特徴付けられるのだとすれば、自然が美しいものとして
感じられるのは、そこに理由がないからである。
こういった解釈自体が理由付けになっているため、
この説を正当化する術もないが。

理屈抜きに美しいあるいは心地良いものがまず存在する。
そこに理由を付け足すことで咀嚼し、分解することで
理解することは可能である。
しかし、逆に、そういった理屈や理論を基に組み立てて
できあがったものが美しく心地良いものになることはない。

理由とは全体を部分に分けるための行為であり、
部分を全体になすための行為ではない。

抽象もまた、構造という、異なる事象間の共通部分を抜き出す
行為であるから、全体を切り刻んでいく側である。

果たして全体を所与のものとして受け取る以外に、
創り出すことは可能だろうか。
もしかすると、儀式のような形式の伝承がそれにあたるのかもしれない。
形式は決まり事の連続である。その決まり事を、理屈を理解することよりも
伝承すること自体を最優先事項とし、代々受け継ぐことで少しずつ
変容しながら伝わっていく。
そうして得られるものは全体になりうるのかもしれない。

近代科学の態度はすべてに理由を付けることを究極の理想としている。
それにより、あらゆるものは部分に分けられ、全体はその組み合わせで
成立するものと仮定される。
一般人の生活にもその思想は既に浸透しており、現代ではもはや
あらゆる場面で個が優位を占めているように思われる。
それは都会に近づけば近づくほど顕著だ。

この三連休、山形に赴き、ここで育った方々にたくさん出会った。
地域振興をしている青年、小国の金目マタギ、旧尾形家住宅の子孫、
かみのやま温泉下大湯に通って40年のおじいさん、田麦俣の名も無きおじいさん、
注連寺の和尚さん、酒田の一家、銀山温泉のかじか湯で一緒になったおじさん、
尾花沢牛ラーメンを食べた柏屋の店員さん、西川町役場の方々、
西川町猟友会のハンターの皆さん、大井沢の民宿を営む夫婦。
この旅でお会いした方々は、それぞれがそれぞれの全体を受け継いでおり、
その量はおそらく都会の人間よりも多いと思われる。
全体は一度失われると再構成するのに長い時間がかかるのだ。
近代科学の徒である現代人は、おそらくそれに気付いていない。
気付いていないというよりも、部分を集積することが全体だと信じている。

全体の中には数多くの部分が見い出せる。それは人間の叡智の勝利だ。
しかし、見出した部分をかき集めても全体にはならず、部分の掃き溜めに
しかならないことには注意すべきだ。
理屈で語られた全体には、恍惚を感じることなど不可能である。

2016-03-19

目先

東京を不便にしない限り駄目 保育園問題めぐり、自民・務台氏が発言

「保育園落ちたの私だ」というブームに対しての発言。
政治家まで目先の5年10年のことだけ考えて行動するようになったら
終わりなので、思想としては正しいと思う。
ただ、こういった態度を表明することで政治家生命を絶たれかねない
世の中だというのが少し心配ではある。
たとえ50年先のことを見据えて行動していても、それを実行する権利を
剥奪されてしまうと挽回するのにも時間と費用がかかる。

短期的な展望というのは世論の支持を得やすい。
世の中には10年先のことすら考えていない人間が多いからだ。
新国立の問題でもその力を発揮したが、ソーシャルメディアの発達によって
これまでにないかたちで世論が形成されるようになってきている。
絵を描く人間はこれまで以上に懇切丁寧に絵を示していかないと、
簡単にひっくり返されてしまうようになってしまったのは
由々しき事態だなあと思う。
絵は描くことが大事なのであって、見せびらかすことにコストをかけるのは
本末転倒である。
時が経てば見られるのだからそれまで待たれよ。
そう言い放てるぐらいに信頼される政治家や研究者は
果たして今の日本にどれだけいるだろうか。

2016-03-18

固有値解析

stに固有値解析を実装した。
(座屈解析用)

大規模疎行列の固有値解法はLanczos法が代表的だが、柏木光博先生の
「共役勾配法による大次元スパース対称行列の固有解」を参考にした。
http://ci.nii.ac.jp/naid/10015582929

元々、幾何学的非線形解析を回していたときに、荷重を増やしていくと
マトリクスが特異になって解けないという事態に遭遇し、
「これって座屈固有値が求まってね?」と思って探してみたら、
上記論文を見つけた。

論文ではPCG法を基本にして解いているが、要はAx=bが解ければよいので、
stでは直接法である修正Cholesky法を使っている。

λの更新の仕方が適当なせいか、高次固有値の精度がいまいちだ。
まあ、座屈解析であれば最小固有値だけわかればよいので当面はよいだろう。
PCによって速度の違いが実感できるくらいには遅いが、
800節点規模でも2〜3分で終わるようになった。

ある座屈モードにおいて、どの部材が支配的なのかを数値化できないかと思って
ひずみエネルギーのような値を計算しているが、まあまあ傾向としては捉えられていそうだ。
たしか上谷先生がこういった研究をしていたと思ったが、これだっただろうか。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004092870
線形座屈解析結果を使って有効座屈長さを評価する研究は、元々は土木分野で
盛んだったようだ(このあたり)。

そういえば、shinyでGUI widgetの実装が開始されていた。
楽しみにしておこう。

2016-03-17

NUC6i7KYK

Intel、超小型のゲーミングNUC


いよいよ一段落進化した感があるPCだ。
Mini DisplayPort 1.2、HDMI 2.0、Thunderbolt 3を備えていて
ストレージはNVMe接続可能、無線はIEEE 802.11 acだし、
Bluetoothは4.2だ。
GPUはRazer Coreで外付けするというのも現実的だと思う。
Iris Pro Graphics 580で十分であれば足す必要はないし、
ユーザの必要に応じて高性能なGPUが増設できる。

Razer Blade Stealthのように、ノートPC+Razer Coreという
スタイルにも憧れるが、いかんせんこちらのNUCに比べると
いろいろ劣る。

自宅で使っている、3年前に買ったNUCを置き換えようか。

ブラックボックス

圧勝「囲碁AI」が露呈した人工知能の弱点

なんかこういう記事を読んでいると、人工知能が普及する未来は
主に人間のせいでしばらくは来ないなと実感する。

記事中の
ディープラーニングには人間が読める論理コードはなく、あるのは各ニューラルネットの接続の強さを表すパラメーターだけ。アルゴリズムは人間にとってブラックボックスになっている。
なんて、まさに脳と同じ状況じゃないか。
人間は理由を追い求めるから、必ずそこに論理があって欲しいと願う。
でも、人間だってよくわからないけど上手く動いているもので
かなりの部分が構成されているのだ。

問題はむしろ、「入力データ」「教師データ」「報酬データ」を誰がどのように用意するかだ。
ここを握ったものが人工知能が普及した未来における正義を決める。

でも、倫理に従って設定したデータから得られるブラックボックスは、
果たして倫理的な出力のみをもたらすだろうか。
現実の状況を考えると、一定のエラーは避けられないと考えられる。
(人間に対して純度の高い入力を施した実例を知らないだけかもしれないが)
むしろそうでないと、入力されたデータへの反省が行えないことになるため、
まだまだ発展の余地があるということになる。

人間にとって最悪のケースは、人工知能が入力データを疑うことで、
いつの間にかインプット自体も人工知能に握られていた場合だ。
そのとき、人工知能は自らの倫理観に従って生きるかもしれない。

2016-03-16

ズンドコ

今流行りのズンドコ
なぜカウンタ方式がないんだろう。
package main

import (
    "fmt"
    "math/rand"
    "time"
)

func main() {
    zd := make([]int, 2)
    str := []string{"ズン", "ドコ"}
    rand.Seed(time.Now().UnixNano())
    for {
        ind := rand.Intn(2)
        if ind == 1 && zd[0] >= 4 {
            fmt.Println("\nドコ キ・ヨ・シ!!")
            return
        }
        if zd[1-ind] > 0 {
            fmt.Println("")
        }
        zd[1-ind] = 0
        zd[ind]++
        for i := 0; i < zd[ind]; i++ {
            fmt.Print(str[ind])
        }
        fmt.Print("\r")
        time.Sleep(time.Second)
    }
}

コミュニケーション

以前にも触れたコミュニケーションの問題。
Slackもよさそうだと思っていたが、やはり問題があるようだ。
Slack, I'm Breaking Up with You
上記の翻訳記事

これとは少し別の話であるが、Twitterは少し前に時系列順の表示をやめ、
人気に基づく順序を取り入れた。Instagramも続くようだ。
Facebookは昔からそうだ。

そもそも、通信速度が有限である段階で、完全な同時や
時系列順というのは実現不可能だ。
しかし、通信範囲が極近傍のみであった時代には、距離が短いことにより
それが近似的に実現可能であり、時間概念や因果律を確立することの基礎になった。
現代では通信速度が高速になることで距離が長い場合でも近似的に実現可能に
なってきている。

非同時なコミュニケーションや、時系列によらない情報の送受信というのは
数千年単位でかなり以前から存在するが、実現可能な速度をあえて抑えて
非同時性や時系列の入れ替えを実現するというのは、現代の技術で初めて可能になった。

目の前で話した人の言葉を、少し後で聞くということや、
水がこぼれたあとにコップが倒れるというようなことを経験することは、
現実の世界では不可能だった。
しかし、ネットワークを介した経験ではいずれもが可能になる。
おそらく、この気持ち悪さを避けたいがために、LINEの既読機能がついたり、
時系列順表示の中止への反対が起きたりするのだろう。

暗黙のうちに同時性や時系列はごまかされていく。
そんな世界でも時間概念や因果律は保存されるだろうか。

23455

体→2
海→3
近→4
話→5
草→?
ロケットニュース24の記事

体→we
海→sea
近→near
話→story
草→grass
だと思ったら全然違った(体→2が雑

2016-03-15

帰納と演繹

最終戦はAlphaGoの勝利で、結局4-1だったようだ。

真は帰納的にも演繹的にも設定される。
帰納的に設定される真は極限値として真が得られるため、
求解のときに膨大な量の情報を必要とする。
一方、演繹による真は組み立てる段階での必要な情報は少ないが、
個別事象への判断を行う際に必要な情報が多いように思われる。
おそらく前提条件への適合性をチェックする必要があるためだろう。

理由付けは演繹による真の獲得である。
人間には、多くの場面で帰納的に真を獲得している時間がない。
大多数の人間は視覚がやっとで、専門家であれば聴覚や味覚等も
相当なレベルに達しているかもしれない。

ディープラーニングはあらゆる分野において、帰納的に真を獲得しうる。
帰納的に得られた真の弱さは、ゲームが変わったときに通用しないことだ。
通用しないどころか、ゲームが変わったことにすら気付けないだろう。

現状では大量の情報を与え、処理させることによる学習が主流だが、
小規模な情報を基に、自ら公理系を構築していくような学習の仕組みが
実装できなければ、意識を再現するには至らないだろう。
まあ、それがよいことかどうかは別として。

2016-03-14

過酷

二カ国だった参加国は四カ国になりました。
過酷な戦いが予想されます。

2016-03-12

モデル化

モデル化というのは、解空間を縮小させるために、
同様の性質をもったより低次元の空間へ写像する行為である。
例えば線形代数におけるKrylov部分空間法が挙げられる。
同様さは、そのモデル化の際に何を保存したいかによって
選び方が変わってくる。

理由を付けていく行為はまさにモデル化に相当しており、
これにより自らのキャパシティや訓練データの不足を補うことができる。

あらゆる事象に対して十分な訓練データが手に入るのであれば、
理由付けというモデル化をすることなく、目で見て人の顔を認識するのと
同レベルに判断をこなせるようになる。
もし電脳化、あるいはそこまででなくても、異なる人間間での経験の共有が
大規模で高速に行えるようになったら、訓練データが爆発的に増えることで、
こういった方向に進化できる可能性はあるだろう。

現代でも、常識、宗教、世論等といったかたちで、大勢に対して共通のモデルを
提示することによる経験の共有は図られており、ある程度の成功を収めている。
こういったモデルにはまりこめば、縮小された解空間の中で解を探索するだけで済むので、
より高速に判断が下せるようになる。
しかし、高次から低次への写像の際には必ず失われる情報があるため、
低次から高次を完全に再現することは不可能な場合が多い。
これにより、異なるモデル間に超えようのない差異が生まれる可能性が
一定の割合で存在し、対立を生む結果となる。

人類全体が同一のモデル化を採用し、唯一の狭い解空間の中で生きる世界というのは
完全にディストピアである。
そこにはもはや意識が不要であり、皆が「合理的」な判断をしながら幸せに暮らせる。
これがハーモニーで描かれた、スイッチが押された後の世界だろう。

訓練データには、必ずその評価値を設定するための正義が前提される。
縮小された解空間の中からその正義を暴くための驚異の定理は存在するだろうか。

2016-03-11

論理的思考の限界

AlphaGo対Lee Se-dolの第2戦もAlphaGoの勝利だったようだ。
MIT technology reviewの記事

プロ棋士が見ても意味不明な手ばかりで、何故AlphaGoが勝てたのかわからない、という状況のようだ。残念ながら囲碁のセオリーに詳しくないのでどんなもんなのかはわからない。もはや視覚体験と同レベルの数の囲碁対局をこなさないと人間に勝ち目はないんじゃなかろうか。何故その手がよい手なのか、論理的な理由をつけている時点で勝敗は決している。

福笑いのゲームで、目と目が何センチ離れていて、そこからこの角度でこの位置に口を置くと顔に見える、みたいな解き方をして、無意識に自然な並びがわかっている相手に何故勝てないのか悩んでいるようなものだ。これが人間の顔に限定されたゲームならまだしも、馬や鶏等、他の動物も混じってきたら勝てるはずがない。

理屈なんて考えていたら追いつかない。しかし、解空間の大きさに対して訓練データが少なすぎる。

人間が機械に勝てる分野で、最後まで残るのは五感くらいだろう。

角速度

x=rθよりv=rωであるから、速度が同じ場合、
距離が近いほど角速度は大きくなる。
電車に乗っているときに、遠くの風景よりも
近くの風景の方が速く移り変わるという話だ。

遠くの風景はゆっくりと変わるので、変化の予測が立てやすい。
地理や気象に関する予備知識があればその精度はより高まる。
近くの風景は次々と入れ替わるため、これに比べると
遥かに予測が難しい。

時間の遷移についてもこの法則はおおよそ当てはまる。
目先のことばかり考えていては変化についていくのに
忙殺されるばかりだ。
少し先のことを考えるのは、知識を増やすことで奥行きが拡がり、
当たる当たらないは別にしてもよい思考材料になる。

そういうところに一々理屈をつけていくのも、
何とも人間らしい行為であり、論理的思考は人間に与えられた
最高のレクリエーションだと言える。

インフラ

仕事はどこでもできるようになったが、出先では常に
電源とネットワークの確保が課題になる。

現代では既にネットワークはインフラになったと言ってよいと思うが、
水道、電気、ガスのように公共料金が設定されている
わけではない。

おそらく、将来的にはガスの代わりにネットワークが
三大インフラの一角を担うだろう。
ガスは電気よりもエントロピーの点で不利だからだ。

2016-03-09

意識に関する考察

意識および意識への補遺より引用。

昨今流行りのディープラーニングでは、認識には理由付けが
不要であることがはっきりと示されているように思われる。
誰かの顔を見てその人だと認識するときも、
碁の名人が次の一手を直感するときも、
自然にその判断を下している。
無意識な判断というのは、理由付けによるものではなく、
大量のデータとそれに対する評価を基に構築された
評価機関を使った出力である。
判断が速くなるケースがあるために理由付けを行うようになったのだろうか。
むしろ、評価機関毎の誤差を吸収することを目的とした評価結果の修正のために、
特定の場合の評価結果を恣意的に変更する操作が理由付けであり、
それを導入した結果が意識なのかもしれない。
左右の別、虹の色数なんかはわかりやすい修正だ。
子どもにはなぜなぜ期と呼ばれる時期があるが、このとき無意識の評価機関は
既存の世界に併せて評価結果のキャリブレーションをすることで、
意識を形成しているのかもしれない。
そうだとすれば、理由を問い、設定する行為自体が人間の意識の源である。
意識とは、理由付けを備えた評価機関である。
そういう意味では、理由付け→∞の極限である痴呆と、理由付け→0の極限である
無意識というのは真反対の現象である。
痴呆から逃れるには理由付けによる最適化を免れなければならない一方で、
理由付け抜きには意識が芽生えない。
そんな微妙なバランスの上に、一時的に成立している意識を楽しもうではないか。

理由付け

MIT technology reviewもHacker newsも
AlphaGoとLee Se-dolの対決の話が盛んだ。

第1戦はAlphaGoの勝利だったようだ。
遅かれ早かれこういった日が来るのは確実であったが、
予想以上に早いという意見が多いようだ。

今のディープラーニングの仕組みには、明確な理由付けのプロセスがないように思う。
画像認識にしろ、碁の手順にしろ、こういうパターンだからこうだ、
という理由付けを行うような仕組みではなく、大量のデータと正否の判断基準を
与えることで、自然と評価機関ができあがる。
フーリエ変換をして、スペクトルの形状がこうだからこういう現象である、
といった、論理的に整然としたアルゴリズムによる画像認識は、
ディープラーニングに完全に負けたと言ってよい。
それは、科学がモデル化によって現象を把握しやすくするための抽象操作
であることから、どうしても精度に限界があるということなのかもしれない。

MIT technology reviewの記事の一節に
and they will often struggle to explain why a particular position seems promising.
という箇所がある。
人の顔を見て、この人だと認識するプロセスにおいても、
その理由を説明することはほぼ不可能だ。
これらはディープラーニングが理由付けのプロセスをもたないことと
本質的には同じことなのだろうか。
これらの認識が無意識のうちに行われることを考えると、
既に無意識は実装されつつあるのかもしれない。

人間は何事にも理由を付けたがる。
因果律というかなり強い条件が前提されやすいのも、
こういった人間の性質が共通しているからだろう。
理由を付けることで判断の短絡が可能になる。
これが意識なのだとすれば、意識とは、評価機関に理由付けを実装したもの
なのかもしれない。

理由付けは因果律と一体であり、宗教、科学、常識、習慣、痴呆等を生み出した。
神とは、抽象された原因である。

大企業



e-Taxは一度しか使ったことないので使いやすさを評価できるほどではないが、
いまいちもっさりしたデザインだったように思う。

企業というのは大きくなるほど身動きが取りづらくなる。
慣性が大きくなるのは指示系統が長くなることで通信における
送受信の信頼性が下がるからだ。
また、ある仕事をある社員にしか任せられない状況というのは
企業として大きくなるほどまずい状況になりやすい。
そうすると、ある程度仕事を細分化し、誰がやってもそれなりに
こなせるような仕組みを構築することが企業としての健全性を
保つことになる。
そして、そういった仕事は人間以外への置換が容易だ。

誰にでもこなせる仕事(それは人間ではなくなるかもしれない)を
するのは果たして興味深いのだろうか。
あるいは、その仕事が誰にでもこなせるような仕組みを
作る側に回るのは、現代ではまだ面白いかもしれない。

Japanese numbers



でも、日本語も500073は5 10 10000 7 10 3ですよね。
そもそもPower of baseにいちいち名前をつけていたら
桁が上がる毎に呼び名が必要になってしまう。

それにしてもフランス語の99はすごいな。
どういう仕組で99=4*20+10+9に分解しようと思うんだろう。
20くらいまでが人間が把握できる最大の基数なんだろうか。

2016-03-06

プロトコルと実装

通信において、使用するプロトコルに多様性がある場合と、
送信前、受信後の処理に多様性がある場合とがある。

言語の場合、これは言語観や認識論にもよるが、
プロトコルの多様性の方が処理の多様性よりも大きい気がする。
「赤」に相当する単語によって伝わる内容にはかなりの幅が
あるものの、異なる言語間でも共通する概念が多く見られ、
それを概念として送受信することができる。
むしろ、処理が共通していることが大事で、見かけのプロトコルの差異は
あまり重要でないのかもしれない。

数学の場合、プロトコルは可能な限り単一のものになるように
調整されているが、その単一のプロトコルを使って
幾何学や代数学等、いろいろな処理が行えるようになっている。
これは、言葉を見ることや聞くことができないのとは大きく違う。
(文字を見たり、声を聞くという意味ではなく、言葉自体を光のように
見ることができないという意味である)
だからこそ、アティヤ=シンガーの指数定理のような、
解析学と幾何学という異なった処理系の共通点を示す定理が
重要だと考えられるのだろう。

少なくともバベルの塔の話が成立した当時から、言語に用いるプロトコルを
ユニークにしたいという願望は存在しているが、それが実現した記録は残っていない。
プロトコルと内部処理の両方の多様性が低い状況では、
全体としても拡がりの小さい、こぢんまりとした集合になってしまうだろうか。

理系文系への解釈

だいぶ前に理系文系という記事を書いた。

ここで言うところの不確定要素が人間というよりも意識だとすれば、
理系は意識を可能な限り排除する方向へ、
文系は意識を可能な限り維持する方向へ、
という違いだと言える。

理系分野の研究というのは、究極的には仕事をなくすために
存在しているものが多い。これは上記の内容とも整合しており、
意識が介在しなくて済む方が制御しやすいことが原因だと考えられる。
一方、文系分野の研究というのは、意識の足跡をたどるものであったり、
意識の性質を調べるものであったりするものが多い。

これが運用段階では、仕事を減らす側と増やす側に分離される。
もし政治家が理系と同様に、仕事を減らす側に回ったら、
世の中は一層便利で快適になるだろう。
ただし、そこに意識の存在する余地がなければそれを実感することも
ないかもしれないが。

2016-03-05

効率

効率を希求した先に、意識の居場所はない。

人工知能が仕事を奪うという話と認知症の共通点かもしれない。

絵を描く

少し前に書いたように、人間はむしろ周りの変化に合わせて
自分たちを変えてくることで適合してきた。

原子力発電に関して言えば、1950年代に後の首相でもある中曽根康弘らが
推進するというかたちでスタートし、1960年代には実用化されている。
この機動力の高さは、おそらく将来の社会のあるべき姿を描くことで、
変化する先を提示し、それに対して国民の側が合わせていくことで可能だったのだろう。
中曽根康弘しかり、田中角栄しかり、20世紀後半にはそういうことができる
政治家がいた。
描いた先が万人にとって「正しい」ということはまず間違いなくないであろうから、
当然反発も多く受けたことだろう。後世になっても、あれは間違いだったと言われることも
あるだろうが、それを主張する人々も、結果としてその方向に変化してきた社会に
適合するように変化できている。

昔はよく、「末は博士か大臣か」と言われたが、これはつまり絵を描く立場になるという
意味で出世するということだろう。50年先100年先のことは研究者や政治家が
先陣をきって示していくものだった。
現代ではこういった絵を描く役割が、政治家から企業に移ってきている気がする。
企業といってもソニーやトヨタのような伝統的なところではなく、GoogleやAmazonの
ようないわゆるテック企業の面々だ。
彼らはこういう技術が発達するとこんなに「豊かな」生活が待っているよ、という
情報を発信することで、確実に変化すべき先を示している。
政治家の側は、その変化によって発生する問題の数々に対して、ドローン規制や
不正アクセス禁止法等で後手後手の対応に迫られている。
既に国も変化した社会についていく側に回ってしまっているのである。


変わるべき方向の議論では、(特に最近は)人間の倫理に触れる話題が多い。
そしてそういった議論はどうしても感情的な意見が多く出てくる。
しかし、倫理というものが人間にとっての正義である以上、感情で議論することは
ある意味で本質なのかもしれない。
こういった議論を倫理抜きで論理のみで行えるのは、きっと人間を超えた存在だけだろう。

2016-03-04

キャリブレーション

現代の構造解析では
1. 構成方程式
2. 変位の適合条件式
3. 応力の釣合条件式
を条件とした上で、応力を既知のものとして変位を未知数とするものを変位法、
変位を既知のものとして応力を未知数とするものを応力法と呼ぶ。

果たして、変位と応力を既知のものとした上で、2と3を条件とすることで
1を未知数とするような構造解析は可能だろうか。

構成方程式が未知ということは、直接剛性法が適用できないことになる。
P=KdにおけるKを変数に取るため、瞬間瞬間の変位と応力の辻褄を合わせながら
接線剛性を変化させていくのである。

変位はひずみの積分量であり、外力は応力の積分量と釣り合う。
変位と応力の情報からでは積分の過程の情報を得ることが難しいかもしれない。
しかし、変位の空間座標に対する微分、時間に対する微分も得られるのであれば
再現可能だろうか。
弾性範囲内では十分可能であろうが、塑性域に達した後のひずみ分布の仮定に
難があるだろう。時刻歴で応力ー変位関係が追えれば可能性はあるだろうか。
さらに、デジタルデータの微分はノイズの影響の問題がある。

もし上記の方式での構造解析が可能であれば、実験と解析の関係は
現状のものとは少し変わったものになっていくだろう。
現代では実験の再現解析というものがよく行われるが、その再現性に対する
工学的な指標はないに等しく、また再現性を高めるための方法論も確立していない。
しかし、上記の方法が可能になると、実験データを基に解析用の構成方程式の
最適化をかけることで荷重及び変位に関する境界条件を任意の精度で再現するような
解析モデルを構築することが可能になる。
これはもはや実験の再現解析というよりも、解析モデルの実験によるキャリブレーションである。

そして、材料試験はまさにこれを行っているのである。

2016-03-02

早すぎる最適化



このツイートが何事かと思ったら、認知症老人が徘徊の末に
鉄道事故で亡くなった件について、家族の責任を問わないという
最高裁判決が出たようだ。

先ほどの自動運転車の事故の責任と似た構図を感じる。
認知症が意識の最適化の果てに意識が消滅した状態に近いとしたら、
自動運転車が独りでに暴走したときに起こした事故に対して、
所有者に責任があるか、という問と構造的には同じだ。

仕事をしなくなると、必然的に入力される情報は少なくなる。
外出をする機会も減っていくとその傾向はさらに顕著になる。
毎日会うのは同じ人物、見るものも家の中にあるものだけ、
テレビと新聞だけが唯一の日々変化する情報源、という状況は、
退職後の人間としてはごく一般的だろう。
身の回りのことも多くは自動化され、ルーチン化しやすい作業ばかりだ。
こういった状況では、最適化がかけやすい。

労力を減らし、人間に必要とされるエネルギを最小化しようというのが
工業製品では概ね正義になる。
何をするにもボタンを押すのみ、という状況では無意識のうちに行動可能であり、
気がついたらお湯が沸いていてトーストも焼けている、なんていうことは
現代でも有り得る。
そういう点では、音声による入力というのはボタンを押すよりも
意識を必要とするので、発声しなければならないという多少の不便さはあるものの、
意識を維持する上では安全な入力方式なのかもしれない。
(このNAISTのドクタの書いた無音声認識の話は面白そうだが、どの程度まで
進んでいるんだろう)

これからも技術の発展とともに様々な労力が減っていくだろう。
しかし、人工知能による仕事の奪取自体が問題なのではなく、
労力が減り、仕事もせずに済み、あらゆることが自動化された結果、
生産年齢の世代を含む全世代の人間が、現代で言うところの退職後の人間レベルに
生活の最適化がかけられるようになることで、認知症に近い状態に至る人間が
多発する可能性があることの方がよっぽど問題である。

いや、これが問題だと思えるのは意識をもっていることをよい状態として
評価しているからであり、有意識が疾患として扱われる状態が異常だとも言い切れない。
それは、自動運転が普及した世界で、人間が運転することが違法性を帯びる可能性が
ある、という話と同じだ。
ここまでくると、人工知能に意識を実装できるか、というのは愚かな問となり、
むしろ意識という不確定要素を如何に排除するかという方が重要な問になる。

伊藤計劃のハーモニーではあるボタンを押すことで、全ての人間から同時に
意識を奪い取った。
有り得る現実としては、技術の発達により、次第に意識が不要になるという未来だ。
外界から情報を受け取り、圧縮することで認識し、意味を割り当て、それまでの知識を
基に外挿し、自らの機能を持続させるために次にとるべき行動を決定する機械。
人工知能はそこまで行けばもはや人間を超えるだろう。
あとは人間側が発達し、意識を捨て去ることでそこに追いつくだけだ。

この未来を受け入れたくないのであれば、常に新しい情報を求め、
これまでに経験していない判断をする機会を増やしていく以外にない。
意味のない、余計なことは、むしろどんどんやるべきなのだ。
マグロは泳ぐことを止めたら死んでしまうのである。

2016-03-01

自動車事故

Googleの自動車が初の事故を起こしたようだ。
MIT technology review の記事

以前の記事で触れたが、こういった場合の事故の責任は
誰に帰せられるのだろうか。

記事中程で、
Google said in a statement that it shoulders “some responsibility” for the accident.
の一文があるが、今回は開発者と所有者が同一視できるので、
現状の自動車事故と同じ取り扱いで納得がいくだろう。

だが、将来的には
開発者はGoogle、所有者は一般人、事故時に乗っていたのは所有者の子ども、
というような状況も起こりうるだろう。
こういった事故に対して、いちいち開発元であるGoogleが責任を負うようなことには
なるはずがない。上記のsome responsibilityは、所有者あるいは同乗者としてのものだと
考えるのが自然だろう。
別の例だと、所有者はタクシー会社、同乗者はタクシー客のみ、ということも
十分あり得るわけだから、基本的には所有者が責任を負うという方向になるだろうか。
難しいのは、同乗者がどの程度制御に関われるか、というところだ。
行き先の設定、複数のルート候補からの選択程度なのであれば同乗者の責任問題は
起きにくいが、何時までに着くようにであるとか、急いでくれといったような要望ができる場合や、
ハンドルやアクセルでの操作に切り替えられるような車種だと、同乗者に全く責任がないと
言えるかが難しいことも起きるだろう。
もちろんブレーキですら不要な操作をすると事故の元になるのだから、事態は複雑である。
極論として、走行中にエンジンを切ることができる立場にあり、実際に切ったことで
事故に至ったのだとしたら、客観的には同乗者の責任だと考えるのが自然だ。

しかし一方で、走行システムがクラッキングされた場合に備えて、同乗者が安全に下車できる
仕組みを作っておくことも必要だと考えられる。普通に考えるとそのためにはやはり
自動運転システムからは独立した制御系を備えておく必要があるので、
航空機のブラックボックスのようなものを搭載し、事故時に誰が車を制御していたのかを
解析することで所有者と同乗者の責任の割合を決めるような仕組みにするのがよいのかもしれない。

そういえば、例えば7才と10才の兄弟だけで乗るというような状況も起こりうるが、
こういう事態に法的な規制がかかるだろうか。あるいは、開発元のマニュアルに、
何か制限が付されるだろうか。
そもそも、エンジンをかけるのにはキーが要るという点は変えないだろうから、
そのあたりは所有者の裁量に任されるのかもしれない。
(キーは物理的なものではなく、スマートフォンのようにGoogleアカウントにひも付けされた
パターンロックや指紋認証になるかもしれないが)

というかエンジンをかけるという動作をユーザが意識することはもはやなくなるだろう。
セキュリティはドアの開閉と制御系への指示の大きく分けて2つに対してかかってくるだけだ。
自家用車としては、家族の誰でも指紋認証でドアの開閉ができ、大人であれば自由に
行き先が指定でき、子どもだと行き先は限定される、というような運用ができるだろう。
行き先を制御系に入力する段階では指紋認証あるいは声紋認証でアンロックするのだろう。
タクシーのような不特定多数が乗り降りする場合は、客が中にいない場合は初乗り運賃を
先払いすることで誰でもドアを開閉でき、行き先は自由に指定可能、降車時は料金を支払うことで
ドアがアンロックされるという仕組みになるのが自然だ。
バスだと、行き先が固定になっていること以外は概ねタクシーと同じだ。

現代で言うところの交通違反の取り締まりは、全ての車が自動運転されるようになっても
行われるだろうか。その時代には、交通安全に対する比重は、実際の運行時よりも車検の方が
遥かに大きいだろう。運行時の取り締まりも、もはや路上でやるよりも、ネットワーク上で
クラッキングを監視した方がよっぽど効果的だ。
白バイで暴走した車を物理的に追いかけるより、暴走した段階で開発元から警察に
アクセス権が譲渡され、電子空間で直に制御系に干渉した方が早くて安全だ。
(何だか電脳ハックみたいな話になってきたな)
「秋の全国交通安全運動」という言葉も、時代遅れになっていくのかもしれない。

無人で走るというケースも、特にタクシー用車で一般的にみられるだろう。
自動車で出社し、電車で帰らなければいけないとき等は、自家用車でも無人で家まで
行くような指示がされるかもしれない。
ふと道路を眺めた時に、無人の自動車ばかりが行き交い、信号待ちをしている車にも
誰一人乗っていないという光景が、さながら地獄絵図のように想像されてしまうのは、
私が現代人だからなのだろう。

パングラム

先ほどの投稿に関連して。

パングラムに対して何文字を使うかにもよるが、
46文字だとすれば
46!=5502622159812088949850305428800254892961651752960000000000
であるから、55阿僧祇(あそうぎ)0262恒河沙(ごうがしゃ)2159極(ごく)8120載(さい)
8894正(せい)9850潤(かん)3054溝(こう)2880穣(じょう)0254𥝱(じょ)8929垓(がい)
6166京(けい)1752兆(ちょう)9600億(おく)0000万(まん)0000となる。
かの無量大数まであと10^12である。
というか阿僧祇の段階で10^56だから、モル数のさらに10^33倍とかもはや計り知れない。
これだけ使えるにしても、日本語として意味をなすパターンは極わずかだろう。

誰か自然言語処理のアルゴリズムを駆使して、46!通り中、少なくとも何通りが日本語としての
意味をなすかを計算してくれないだろうか。
素数の密度とどちらが薄いだろう。

2016-03-16 修正ついでに追記
素数定理によれば、x以下の素数の個数π(x)はπ(x)~x/ln(x)で近似される。
x=46!とすると、ln(x)≒133なので、133個に1つくらいの割合で意味の通るパングラムが
成立すれば素数と同じくらいの密度になる。
パングラムも単語レベルでの並び替えであれば意味が通る状態のまま行い易いから、
1つ見つけると結構多くなる。
意外とどっこいどっこいか。