2019-12-31

2019年

今年印象的だった読書は、「新しい実在論」「新記号論」「千夜千冊エディション」あたりか。
「新しい実在論」では、「存在とは抵抗である」ということに考えが至った。dataからinformationへの抽象の仕方は様々であり、その多様性がつまり自由ということなのだが、それでもやはり全く勝手ということではない。その勝手にできないという固さが抵抗としての存在につながる。ソフトウェアとハードウェアの問題である。
「新記号論」では、コヒーレントな振る舞いを一つの塊とみなす過程が、つまりはdataからinformationへの抽象化なのだということを考えた。コヒーレントな振る舞いがある種の抵抗になり、一群は一つの個体として存在するとみなされるのである。最近研究テーマになっている、複数の振動する時系列データの相関を捉える手法とも関係があるはずだ。
「千夜千冊エディション」自体は2018年5月から刊行され始めているし、何なら千夜千冊の連載は2000年2月に遡る。散々読書の参考にしながらもつまみ食い状態であった千夜千冊に、ちゃんと向き合おうと一念発起したのが今年の7月であった。今は12/24に出た「編集力」を読んでいる。

ドクタの学生だった頃は、考えたことをゆっくりと文章にする時間が取れたのだが、最近はなかなかそれも叶わず、記事の本数はめっきりと減ってしまっている。購入した本の数と読了した本の数は2017年や2018年と大差ないのだが、やはり言語化を怠ると考え事ははかどらない気がする。
その一方で、設計の実務が増えたり、展覧会や演劇を観に行ったり、演奏会をしたりと、身体的な実践のウェイトも少しずつ大きくなってきている。一対一・一対多・多対多、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚、言語・非言語など、物理情報を直接やり取りするコミュニケーションを通して、ソフトウェアとハードウェア、通信可能性と応答可能性、dataとinformation、除算モデルといった考え方を、実際の行いの中で確かめていきたい。

2019-12-03

中国絵画史

中国絵画史に興味がわき、宮崎法子「花鳥・山水画を読み解く」、宇佐美文理「中国絵画入門」を読みながら、NHK出版の「故宮博物院」シリーズを眺めている。

「花鳥・山水画を読み解く」は、中国の思想・文化的な背景を交えながら絵画の意味を読み解くものになっており、文化人類学的な興味がそそられる。「中国絵画入門」は、気と形という、ルネ・ユイグ「かたちと力」にもつながりそうな見方がよい。

山水画と雅俗の区別。
雅俗の区別というのは、つまりエリートを決めるということだ(eliteの語源は「選ばれた者」である)。科挙によって、氏ではなく育ちによって出世できるようになった結果、育ちの優劣を峻別するために生じた雅俗の区別が山水画の発展につながるという説明は非常に明解である。山水画は書と共通点が多いが、西洋におけるラテン語の使用と同じように、権威は書き言葉を支配することによって保たれる。西洋ではその後、ダンテ、ルター、デカルトらによって次第に俗語が書かれるようになりつつ、三十年戦争を経て、権威は教会から国家へと移っていった。書き言葉の解放と権威の失墜という観点からすると、白話小説の普及や白話運動といった言文一致の流れも、山水画の衰退と関連しているのではないかと思う。

花鳥画と同音による吉祥シンボル。
発音が同じであることによって吉祥を象徴するという、耳を介した抽象化は、表語文字ならではである。山水画が書き言葉とつながっているのに対し、花鳥画は話し言葉とつながっている。これはつまり、エクリチュールとパロールの対比である。20世紀の西洋哲学で展開された言語の問題は、山水画と花鳥画の関係にも適用することができるだろうか。書き言葉があからさまに権威を支えるのに対し、話し言葉は知らぬ間に特定の価値観を埋め込む。識字率の推移と画の様式の変化を対応付けてみるのも面白いように思う。

気の流れ。
書には筆順があるが、山水画にも筆順はあるのだろうか。筆順と気の流れは対応していてもおかしくない。李郭派や浙派のように気の流れを重視した流派と、元末四大家や呉派のようにそうでもない流派では、筆順の違いがどのくらいあるのだろう(草書と楷書くらい違う?)。

2019-11-28

美しくてかわいい

「『美しい』と『かわいい』の違いって何だと思いますか」
「『美しい』が『高い』だとすれば、『かわいい』は『近い』かな」
「『高い』の反対は『低い』で、『近い』の反対は『遠い』じゃないんですか」
「『美しい』と『かわいい』は別に反対じゃないよね」
「美しくてかわいいものがあってもいいし、美しくもかわいくもないものもあっていい」
「まあそうですけど」
「でも、美しくてかわいいものってあまりみないじゃないですか」
「きっと『高くて近い』という感覚が天才的なんだろうね」

高くて近いという感覚を得るには、自らも高くにあるという感覚が要る。そして、高みにありながら別の高みを看取するには、異なる価値観に基づく判断がいくらでもあり得ることを知っていなければならない。それぞれが別々の高みにあることそのものに、ある種の近さを覚える。卓抜であってなお、特定の価値観から自由であるというのがつまり、天才的なのだと思う。

2019-11-26

深層学習による判断機構の技術的複製

似たような状況に度々遭遇すると、その状況は類似から同一へと抽象され、同じ対処が施されるようになる。その結果としてデータに偏りが生じて情報となる過程が学習であり、学習を繰り返すことでデータから情報へのコンプレッサである判断機構が形成されていく。これはつまり、シグナルとノイズの切り分けによる効率化である。

学習によって生じる偏りのすべてが明示的であることは稀であり、暗に埋め込まれてしまう偏りも多い。判断機構を形成した範囲でしか通信が行われなければ露見しなかった偏りも、通信範囲の拡大とともに思わぬ形で現れることがあり、それが致命的な判断ミスとなれば当該判断機構は死を迎える。その屍の上に、時には多くを継承しながら、時にはあまり関係なく、新しい判断機構が生まれてくる。時代を追うごとに振幅が大きくなる判断機構の生滅の波を前に、効率を犠牲にしてでも消波したい派と、それでも効率を捨てきれない派が対立し、その対立が生滅の振幅をさらに増幅する。この不安定さこそが生命らしさだなと思う。

深層学習によって、入力データと出力結果の組から自然な判断機構を自動生成できるようになり、深層学習による判断機構の技術的複製可能性が高まると、「無意識が織りこまれた空間が立ち現れる」ことで、「無意識的なものを爆破するという治癒的効果」によって判断機構の生滅の過度な発散を抑える「集団の哄笑」が可能になるだろうか。

あるいはそれは、既にSNS上で試みられているのかもしれない。

2019-11-18

三様

駱駝の駱駝たる所以は一つの荷を一途に背負い続けることにあり、獅子の獅子たる所以は駱駝からの逸脱にある。

重荷を背負っていることに気付かないでいる、自覚のない駱駝。むしろ重荷を背負うことに誇りを覚えてすらいる、満足した駱駝。獅子に倣うことこそが獅子だと勘違いしている、獅子の顔をした駱駝。駱駝たちは、各々が各々に各々の荷を背負い続けようとする。

その傍らで、時折獅子が吼える。その逸脱の咆哮を、創造と犯罪のいずれとみなすかは獅子ではなく駱駝が決めることであり、逸脱の創造性と犯罪性は表裏一体であるにも関わらず、駱駝は創造性だけを掠め取ろうとする。駱駝にとっての創造性のみを取り出せるという幻想に加担し始めた獅子は、既に獅子ではなく駱駝であり、もう咆えることもないだろう。

獅子の咆哮を聞いて、その荷を背負い続けるもよし、一度荷を下ろして新たな荷を背負うのもよし。いずれにせよ、獅子が吼え、駱駝が重荷に対する決意を新たにすることで、群れは生き永らえる。獅子の咆哮に耳を閉ざしたり、獅子の存在に目を瞑ったりし始めたら、群れは壊死へとまっしぐら。獅子の生まれない駱駝の群れはユートピア=ディストピアである。

この駱駝と獅子のあいだを自在に行き来できる童子はいづこか。

2019-11-14

驚異と怪異

先月大阪に行った際、「驚異と怪異」展を観てきた。

西洋における驚異の概念が科学のルーツであるのに対し、東洋における怪異の概念は行政のツールである、というような話が面白かった。妥当な理由付けの欠如を補填するために創出される概念であるという点では、驚異も怪異も神様みたいなものであるが、設定の仕方に一神教と多神教の違いが現れているように思う。

民俗学博物館は常設展も充実していて見どころが多かった。全体として仮面が印象に残っている。




2019-11-05

駱駝とオアシス

駱駝とオアシスの話を抽象できませんか、という赤目姫の問いかけは、ツァラトゥストラのことだったのだろうか。

他にパッと連想したのは、驢馬が引く車と、回転木馬の永劫回帰のイメージくらい。

も少しちゃんと比べてみようか。

2019-10-17

informationとdeformation

informationとdeformationは、いずれもformに関係している。かたちが備わることがinformationであり、かたちを脱することがdeformationである。つまりは情報とデフォルメ。

デフォルメは、データを別様に解釈することで得られる情報であるが、元の情報とデフォルメの間には幾ばくかの同一性identityが残る。このとき、先に失われる同一性がソフト、いつまでも残る同一性がハードである。ソフトがなければ応答可能性はゼロであり、かたちは壊死している。ハードがなければ通信可能性はゼロであり、かたちは瓦解している。

loadに応じてformが変わるとき、どのようなdeformationが生じやすいのか。それをinformationの変化として捉えると、エントロピーを設定できるだろうか。そんなことを考えて研究している。

2019-10-03

経済問題と環境問題

経済問題と環境問題は、いずれも人間がいかに住み続けるかに関するものであるが、対象とする時間的・空間的なスケールには隔たりがある。経済問題が、比較的短い期間や範囲を対象として、人間の活動をいかにやりくりするかを問うのに対し、環境問題は、比較的長い時代や領域を対象として、人間の活動によってもたらされるものの是非を問う。マクロ経済学をさらにマクロにしたものが環境学だとみることもできるだろう。

ミクロとマクロのギャップによる視点の違いによって、同じ現象にも正反対の意見が出てくる。そして現状では、どちらかと言えば個人の寿命や活動範囲に近い経済問題の方が喫緊の問題として優先され、二つの視点の上手い落とし所は今しばらく探られそうにない。顕微鏡には顕微鏡の、望遠鏡には望遠鏡の役目があるのだが、いずれか一方しか覗き込まないまま、顕微鏡と望遠鏡を覗いたもの同士が言い争う話があまりに多すぎるように思う。

ミクロとマクロのギャップは、人体を一つの単位とした個が確立された近代以降、急速に拡がったように思われる。それはもしかすると顕微鏡と望遠鏡が発達した16世紀後半から17世紀以降に符合すると言えるかもしれない。右目で顕微鏡を覗き、左目で望遠鏡を覗くようなガリレオ的観察は、一つに統一された状態をよしとする近代的個人にとってはダブルスタンダードでしかない。むしろ、経済問題と環境問題を別個のものとして語れることこそが、近代的個人のアイデンティティにすらなっているようにもみえる。

人間の寿命が延びたり、共産主義的に個の単位が大きくなったりすることで、ミクロとマクロのスケール差が狭まれば、経済問題と環境問題は再び接近するだろう。両者を一緒くたに論じることは、近代的個人を至上のものとする価値体系の枠組の中では難しいように思う。

2019-10-01

デバッグ

それまで動かしていた環境下では問題がなかったプログラムでも、環境が新しくなると未知のバグに遭遇することがある。それが重大な損失をもたらさないように、デバッグは怠らないのが吉である。

プログラミングと同じように、発言にもデバッグが必要だ。「バグは出ない事しかわからない」、「バグのないソフトウェアは無い」以上、リスクのない発言もまた存在しないのだろうが、意図しない炎上を防ぐには、慎重に言葉を選ぶしかない。

この文脈で言うと、炎上商法はマルウェアみたいなものだろうか。

2019-09-29

photo book

10年ほど前は、フィルムで写真を撮ることも多かった。Zeiss Ikon Contax IIa、Contax T2、Hasselblad 500Cあたりを使っていた。久しぶりに当時撮った写真を見てみたら、一冊だけフォトブックとしてまとめてあった。おそらくZeiss Ikon Contax IIaにZeiss Opton Sonnar 50mm f1.5をつけて撮ったものだ。懐かしい。































2019-09-26

フレーム問題とアブダクション

フレームはむしろ判断が下った後で、そこにあったように見える。
An At a NOA 2016-01-27 “フレーム問題
頭の良さ」によって状況変化ごとの妥当性を見積もり、それを蓋然性と同一視した上で閾値以下の選択肢を却下する。そのアブダクションの過程を事後的に眺めると、予めちゃんとしたフレームがあるように見えなくもない。アブダクションに頼って思考しているにもかかわらず、帰納と演繹だけで思考していると仮定することで現れる錯覚が、フレーム問題なような気もする。

頭の良し悪し

ある状況のデータを基にして、そこからどのような状況に変化し得るかということを、妥当性reasonabilityと併せて見積もれるというのが、「頭が良い」ということの個人的なイメージだ。もちろんそれが蓋然性possibilityと一致するのが望ましいが、多くの状況は非決定的であり、蓋然性は一定しないことがほとんどであるように思う。

「頭が悪い」が「頭が良い」の反対だとすれば、(1)状況変化を考えないこと、(2)妥当性を見積もらないこと、(3)妥当性の見積もりが外れていること、はいずれも「頭が悪い」に該当する。
(1)はぼーっとしているか頭が固いかのいずれかだ。それはそれでユートピア=ディストピア的な幸せに浸ることができているとも言える。
 (2)はあらゆることについて等しく心配してしまう優柔不断な暇人だ。判断を下すまでに無限の時間を要するという問題以前に、偏りのない選択肢というのは情報的には無価値だと言ってよい。
(3)の評価は難しい。妥当性の与え方は一意的には定まらないため、結局のところ、自分が想定する見積もりと近い妥当性を与えるものを「頭が良い」と感じているに過ぎない。突飛な発想に対して、状況が変化してから後出しで「頭が良い」と言うことは簡単だが、事前に「頭の良さ」を指摘することの難しさたるや。だからこそ「馬鹿と天才は紙一重」なんてことが言われるのだろう。ここにも「頭の良し悪し」がある。

ちなみに、個人的には、すこぶる肯定的に「頭が悪い」を用いることがある。それは、妥当性の見積もりが強い思いに支えられているが故に、ある特定の選択肢だけが卓越して、他の選択肢が見えなくなっているが、周囲もその選択に合意している状況においてだ。大抵は酒を飲み始めるときである。

2019-09-21

空気人形

是枝裕和監督の「空気人形」を観た。

かたちの点では動物よりも人間に近いけれど、生命の点では動物のほうが人間に近い。そんな人形の中でも、人体というセンサ同士のすり合わせであるセックスに使用されるラブドールは、スケールやディテールなど、あらゆる点におけるかたちの再現性が追求され、その究極は「未来のイヴ」のハダリーに至る。

しかし、空気人形がハダリーと異なるのは、かたちが確固たるものではなく、それを維持するのに空気が要るところだ。そして、空気が動き、息吹となることで生命が宿る。空気がかたちをつくるとすれば、息吹はいのちをつくっている。息吹breath, exhalationは、ロウソクを吹き消す息、息を吹き込むセックス、風鈴、タンポポの綿毛だけでなく、100円高いシャンプーの匂い、子供時代を彷彿とさせる潮の香り、バイクの後部座席から首元を嗅ぐ行為などを通して、語源である嗅覚smell, odorへのこだわりにもつながる。息吹の流れは次第に滞り、いつか止まって死に至る。それがエントロピーの増大、つまり年を取るということだ。それに抗うように、自転車のタイヤにも、小顔矯正器にも、のぞみの身体にも、空気が流し込まれる。テッド・チャンが「息吹」で喝破したように、ただエネルギーがあれば生命になるのではない。エネルギーの流れこそが生命というプロセスなのである。

容器の中に封じられた球体。
その球体が動かされ、カランコロンと音がなる。
人間も人形も、案外そんなものなのかもしれないが、ハードウェアの違いは距離感を生み出す。玉子、目玉、睾丸というバタイユの「眼球譚」的球体幻想に支えられたドロドロな人間と、きれいなビー玉入りのラムネの瓶のように固く透明で空っぽな人形。燃えるゴミとなった純一を不気味に感じ、燃えないゴミとなったのぞみを貝殻のようにきれいだと思う。燃えるゴミと燃えないゴミの間には、残念ながら完全な互換性は存在しない。それでも、わずかな通信可能性communicabilityをきっかけに空気が動いて息吹になったものが、つまりは心なのだろう。

2019-09-08

あしながおじさん

あしながおじさん
しじんなあさがお
詩人な朝顔
poetic morning glory

2019-09-07

月影

月影が 蕩けて淡し 心字池

月光

月光を 集めて妖し 心字池

2019-09-05

金沢

学会で金沢に来ている。
発表は初日に終わったので、昨日は市内を観光していた。M1の冬に来て以来だから、およそ10年ぶりか。

最近、能を観に行くようになったので、能楽美術館に行きたかったのだが、あいにく展示替え中。6日には次の展示が始まるようだが、6日の午後はロボット溶接のPDを見に行く予定なので、残念ながら今回はパスだ。県立能楽堂も中に入れず。

鈴木大拙館はやや人が多かったものの、谷口吉生さんらしいディテールや空間が、哲学者のための建築として非常にマッチしていた。ああいう場所でひねもす本を読み、考え事をできたら、いかばかりか幸せだろうか。

兼六園やひがし茶屋街にも足を運んだが、10年前とあまり変わらない印象だ。それはそれで、長年続いているもののよいところである。ひがし茶屋街へ歩く途中、森八本店で菓子木型美術館なるものを見つけ、帰りに寄ってみた。流れているクラシック音楽とはあまりマッチしていないが、千点以上の木型がぎっしりと並べられた様は圧巻で、思わず見入ってしまう。木型という発想自体は同じものの大量複製に通ずるが、木型そのものは手作業による一品生産であるという、オリジナルとコピーの対比が面白く、やはりオリジナルとみなされるものだけが展示に耐えるのかもしれないという考えが浮かぶ。

金沢21世紀美術館に戻り、佐藤浩一氏の「第三風景」を観る。性と身体を奪われたイチジクを通してユートピア=ディストピアを描く展示は、最近読んだ「幸福な監視国家・中国」で取り上げられていた功利主義の果ての反自由主義ともテーマを共有しており、なかなか楽しめた。原子、細胞、身体、家族、国家、…、どのレベルにおける個体を重視しているのかを意識すべきなのだろう。メインの粟津潔氏の展示は、あまりに混んでいたので回避。

マックイーン モードの反逆児

「マックイーン モードの反逆児」を観た。

創造と犯罪は紙一重ですらない。両者はともに、マジョリティからの逸脱、モードへの反逆であり、非凡singularityに与えられた別名に過ぎない。マジョリティとは異なる視点によって逸脱がつなぎとめられれば創造と呼ばれ、マジョリティの視点によって排斥されれば犯罪と呼ばれる。その差は、一切の理屈抜きに物理的身体に訴求する印象の有無が生み出すように思う。つづめて言えば、感動できるか否かに懸かっている。

やはり写真で見るのと映像で見るのとでは、ショーから伝わってくる印象が段違いだ。真っ白なドレスに2台のロボットがインクを噴射するショーは、着色の舞というプロセスであってこそ、感涙を誘う印象の強さを発揮する。モデルとロボットがダンスを交わし、汗とインクが混じる様子に、解釈するよりも先に身体が反応してしまう。いや、解釈より反応が先行するのは常に起きているとしても、その前後関係の擬制がうまく働かないほど、刺激がイレギュラーだということだ。擬制によって成り立っている自意識が薄れた忘我の状態がつまり、感動である。

2019-08-14

マリアノ・フォルチュニ 織りなすデザイン展

三菱一号館美術館でマリアノ・フォルチュニ 織りなすデザイン展を観てきた。

やはり「デルフォス」やテキスタイルが目を引くが、舞台装置やデスクライトなどの発明家・エンジニアとしての仕事も豊富なのが面白い。細やかなプリーツを特徴とする「デルフォス」が、200mm立方ほどの小さな箱へと捩れて収まっているあたりに、収納の仕方までを見据えたエンジニアリングを感じる。折り紙にも通ずるfoldの極致だ。クラシカルな素養はもちろんのこと、発明家やエンジニアとしての視点があればこそ、「デルフォス」が画期的なファッションデザインとしてまとまったのではないかと思う。


2019-08-13

千夜千冊エディションチャレンジ

松岡正剛氏の千夜千冊をテーマ毎に文庫化した「千夜千冊エディション」が出版されている。既刊は10冊だが、これを7月の一月で読み通す「千夜千冊エディションチャレンジ」を密かに実行していた。結果としては、読破に一月半。関連して購入したのは、44冊の本と2枚の能のチケット。締めて10万3479円也。

読書量、知識量、編集力、語彙力、…。入力から出力に至るあらゆる局面において、氏の情報遣いとしての圧倒的な巧みさを感じる。
精進の足りないことを身に沁みて、「神と理性」を十日ほど待つ。

2019-08-08

代名詞

曖昧見舞い
結う結わう結わず
ウイアは明日会わず

2019-07-28

クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime

国立新美術館でクリスチャン・ボルタンスキー – Lifetimeを観てきた。

吐血しながら咳をする男と人形をなめる男が、えぐるほどの近距離から人間の身体性を刺激するところから始まる。
最初の部屋の展示からは、人生は如何にして痕跡として残し得るかというボルタンスキーの試みを感じる。人間の営みは、写真や衣服、創作物、生きた秒数などの文化的な化石へと圧縮される。
ボルタンスキーの心臓音を聞きながら、ボルタンスキーの顔のカーテンをくぐり抜けて左に曲がると、多くの顔が現れる。最初は少し不気味にも感じたが、モニュメントと題された作品が祭壇やステンドグラスとなって教会を構成しているのだと思って振り返ると、ふいにその前の空間が広場のように感じられ、整然と並んだ多くの顔は追悼碑のように見えてくる。ある特定の配置へと圧縮された教会や広場の表象は、文化的な記憶を共有することによって伸張され得る。
幽霊の廊下を抜けた先にはもはや顔は無く、うず高く積まれた古着と、その周囲に立つ声を発する古着が、着ることと話すこともまた人間らしさの一部であることを思い出させる。アニミタス(白)やミステリオスでは、人間の痕跡は風鈴やラッパにまで縮減されており、その痕跡すら、今はもうないのかもしれない。だんだんと儚くなっていく人間の痕跡を、人間が鑑賞しているという実感。

顔、古着、心臓音、声、映像。いつかどこかで存在(present)した何かが、時空間上の隔たった位置において、不完全な複製として再現(represent)される。熱力学第二法則に従って高まっていくその不完全性を埋めるのは、記憶であり、物語であり、神話である。アウラは、その埋めている感覚から生まれるのではないだろうか。
生というプロセスの渦巻く情報の海において、物理的な近さの有限性を知りつつも、離れたところにある生との距離を縮める別の方法を模索するところに、人間らしさがあるのかもしれない。

2019-07-16

Child's days memory

浜辺の遅い午後。時刻は15時半から16時ほど。日中の刺々しい日射が次第に丸みを帯びてきたという情報が、先ずは皮膚を通して伝わり始めている。眼がそのことに気付くのは、もうしばらく先のことだ。
既に波打ち際とは距離をとり、時代遅れのカラフルなパラソルの下に腰掛けながら、視線は漠然と海に向かっている。そこは、ついさっきまで遊んでいたけれど、戻るのが億劫になってしまった場所。今はもう、遠くから眺めるのが精一杯になってしまった場所だ。
視線の中の人や波や雲の動きに合わせて、そこに自分がいると仮定した場合のシミュレーションが走る。シミュレーション結果には、日中に身体が蓄積したデータに由来する偏りが不可避的に混入するため、結果自体を万人に敷衍するのは難しいだろう。しかし、手法としては敷衍可能かもしれない。グローバルな手法のローカルな適用。データセットと切り離せない深層学習結果。その結果として現れる偏りこそ、記憶と呼ぶべきものだろう。そして、解消不能な偏りが全身を覆っていくというのが、大人になることの一側面なのだろう。云々。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか太陽が沈み始めている。「沈む」というのは、地球平面説的で天動説的な表現な気がしなくもないが、それが一番しっくりくるくらいには、この二つの近似モデルは直観的だ。一次的と表現してもよい。太陽とともに、浜辺からも人影が姿を消した黄昏の中で、思考はぐるぐると回りながら、一つの偏りへの収束を束の間免れている。

2019-07-14

ムットーニ

世田谷文学館でムットーニコレクションを見た。

人形劇。音楽。照明。朗読の声。
すべてがコントロールされた円環的なメカニズムでありながら、人が見ることでオーガニズムになる。パンフレットに「見る人の数だけ物語がある」と謳われ、荒俣宏に「機械や星の冷たい夢でしか癒されない人たちのための暗い玩具箱」と評されたムットーニにおいては、メカニズムとオーガニズムが絶妙にバランスしているように思う。

レイ・ブラッドベリの「万華鏡」を題材にした、「アローン・ランデブー」という作品が好きだ。
宇宙飛行士が大気圏に突入して流れ星になる瞬間、地上では子どもが願いを込めている。重力場に為す術なく一つの秩序が解体されていく過程が、希望を与える別の秩序として認識されるというデュアルな情景を、人形劇と音楽と照明と声とが、奇跡的なバランスで想像させてくれる。

オーディオブックにはいまいち馴染めないと思っていたが、逐語訳的な情景描写ではなく、意訳的で簡潔な情景描写をする機構と組み合わせるのは、結構いいかもしれない。

p.s.
この作品に感動して涙が出たと話したらピュアだと言われたが、感動とは主体と客体の関係がピュアになることを言うのだと思う。主体というモデルと客体という対象が同期することで、両者がコヒーレントな状態に陥ることが「感じる」であり、感じることによって差異が消失する過程が「感動」である。そしておそらく、感動の大きさとは、消失する差異の大きさを意味するのだと思われる。主体や客体がシンプルであるよりもコンプレックスであるほうが、感動に至るのは難しいけれど、達成される感動は大きい。



2019-07-10

神話と深層学習

An At a NOA 2018-06-25 “実証的モデル”で、神話と科学の共通点について書いた。一方で、神話は抽象され過ぎているために、現実に起きたこととは考えづらいことも多く、具体的な対象との関連が容易には読み取れない。

その点では、神話はむしろ深層学習に近いようにも思われる。神話を、人間の各世代からなる隠れ層が無数に連なった深層学習の出力結果とみなすことは、どのくらい妥当だろうか。

人間の棋士がAlpha Goの一手を理解しようとする過程は、神話学の変種ということになる。集合的無意識と神話の類似性も、このあたりから理解することができるだろうか。

王道

royalの語源は*reg-="move in a straight line"であるから、王道Royal roadは真っ直ぐであることに本質があるように思う。つまり、王道は一次近似に通ずる。*reg-に由来する、regular, rich, right, ruleも同様である。

中文Wikipediaの「王道 (儒家思想)」のページの「起源與轉化」には、「王」は元々斧の形を表す甲骨文字で、当初は統治者の刑罰権を象徴していたが、次第に理想的な統治を意味するように転化していったとある。斧の刃で切ったような真っ直ぐな一次近似が、次第に理想へと転じていく様には、どことなくユートピア=ディストピア感を覚える。

維持を象徴するとされるヴィシュヌの6番目のアヴァターラ、パラシュラーマが持っているのも斧であった。

2019-07-09

名付けられぬ逸脱

マジョリティとは、特定の観測点からみた集合の一次近似であり、一次近似による単純化の写像をまとめたものが常識である。観測点の周囲だけであれば十分よい近似になるが、空間軸や時間軸に沿って離れるほど、基本的には近似の精度は悪化していく。

近似への高次項の付加は、マイノリティを認識することによる常識の拡張であり、それは近似精度の向上をもたらす。しかし、近似されたモデルと元の集合の差異は解消するとは限らず、モデルは際限なく複雑さを増していく反面、モデルからの逸脱はいつまでも残り続ける。LGBTTQQIAAPの文字列は、どこまで長くなれば性的指向のMECEなモデルが完成するだろうか。それが完成するという発想そのものが、近代的なマジョリティの信念であるようにも思う。

名付けられぬ逸脱を捉えるためには、結局、その逸脱に近づくしかないのかもしれない。それは、常識を拡げるというより、元の常識にとっては逸脱である観測点の近傍で形成される別の常識とのデュアルスタンダードを生きる、というイメージに近い。究極的には天才の所業であるかもしれないが、それは近代的な個人であることにすがろうとするからなのだろう。

時空の遥か彼方までを一つのモデルmodelで大域的に近似できるというのは、モードmodeの時代たる近代modernの基本前提であったが、単一のモデルの複雑化だけで解決しようとする代わりに、観測点の異なる複数のモデルをもつようになっていくだろうか。
そのとき、個人の、民族の、国家の、人類の同一性identityは、どのように維持されるだろうか。

2019-07-02

理想と現実

複数の理想のオーヴァラップが現実であるから、一つの理想を基準に取ると、現実は理想とはかけ離れた不純なものに映る。

「何もしない」という現状維持の傾向もまた、重層する理想の一つであろう。それは通常は理想とはみなされないが、数ある理想のうち、エネルギー的には最も有利であり、卓越していることも多いように思う。

抽象的には、最小作用の原理ということだ。
これは極めて自然な理想であり、それとは異なる理想が卓越した現実を実現するのが、つまりは人工である。

人工を突き詰めると、極限では、現状維持が実現するものとは別の純な現実に漸近するが、時間・空間的に不変・普遍化した純な現実ほど恐ろしいものはない。

自然であれ、人工であれ、純な現実は局所的に実現するくらいが丁度よい。

2019-06-26

フラジャイル

松岡正剛「フラジャイル」を読んだ。

ある特定の秩序を維持しようとする力が「強さ」だとすれば、「弱さ」とは何だろうか。その「強さ」の判断基準によって、良し悪しの悪しの方に選別されたものとする、「強さ」の補集合としての「弱さ」というのは、あまりに消極的であり、それは結局のところ、「強さ」への着目でしかない。あるいは、その「強さ」のつくる秩序を変えようとする、「強さ」からの逸脱としての「弱さ」は、それが行き過ぎれば、また別の「強さ」になってしまう気がする。

「弱さ」はむしろ、ある秩序が移り変わるか否かの瀬戸際、ホメオスタシスとトランジスタシスの「強さ」と「強さ」の葛藤の場である境目、二つの光がまじりあうtwi-light、「同」に収束しない「類」という近傍、生命のように刹那的なEdge of Chaosのことを言うのだろう。

「強さ」への憧れは、秩序が固定化する傾向、すなわち善性の発露である。ひたすらに固定化して壊死してしまいかねない善の光に照らされてできる影としての「弱さ」ではなく、葛藤の中で善という光になりそこねたラディカル・ウィルとしての「弱さ」。その「弱さ」があってこそ、「生きる」という秩序更新プロセスは継続するのである。

完結しておらず、完全でもなく、全体でもなく、何らかの「弱さ」をもちつづけることで、秩序の変化幅をなるべく減らさないでいる、感じやすいままでいるというのが、弱体化やネオテニーという人間なりの戦略だろうか。

2019-06-22

それでもデミアンは一人なのか?

森博嗣「それでもデミアンは一人なのか?」を読んだ。

エラーを導入することで局所的にエントロピィ増大に逆らっている状態のことを「生きている」と形容すれば、有性生殖sexual reproductionによるハードウェアレベルでのエラー導入が無限に遅延された世界では、生命が生きていく上で、ソフトウェアレベルでのエラー導入への依存度が高くなる。intellectual reproductionとでも呼ぶべきソフトなエラー導入は、現代でも既に言語や身振りなどの広い意味での記号を介したコミュニケーションによって行われているが、人間の頭脳以外の処理装置の特性も考慮した上で、それをより高速かつ高効率なものに、つまりよりハードなものに近づけようとする試みが、トランスファをベースにした共通思考なのだろう。デボラもグアトも、トラスファは皆、突然変異を引き起こすトリックスターであり、その突然変異が遺伝的浮動によって広がることで共通思考は変化し、熱的死を免れる。

複数の処理装置をもったロイディやデミアンは、あるいは数多の処理装置がつながった共通思考は、一人なのか?
それは、何を一つとみなすかという同一性の判断基準、つまりは内と外の隔て方の問題に帰着する。多細胞生物における個々の細胞がもはや一つの生命体とはみなされないのと同じように、Reproductionの在り方が変化した世界においては、一つのBrainという単位もまた、現在の常識とは変わっているはずだ。
そしてその種の区別は、処理能力があまり高くないために、「理解」というデータ圧縮プロセスを介さざるを得ない人間の頭脳だけが必要とするのだろう。

2019-06-16

ルート・ブリュック展

ルート・ブリュック展を観てきた。

抽象度の上がる後期の作品、特に「泥炭地の湖」が好きだった。
黒一色。
直線や円といったシンプルな図形。
釉薬の有無による反射率の違い。
そういったミクロな抽象的要素が集まることで、複雑なマクロが構成されている。
近寄って見たり、遠くから眺めたりすることで、ミクロとマクロのスケール横断が実感できる作品になっているように思う。
抽象的でありながら、視覚的だけでなく触覚的にも感じられるのは、ミクロとマクロの横断があるからだろうか。

2019-06-08

六古窯

よく行く喫茶店で招待券をもらっていたので、出光美術館で「六古窯」展を観てきた。

粘土という塑性体を用いて創造されたかたちは、焼かれることで変形・変色しながら剛性を獲得し、時代と場所を超えて維持される。かたちを留めるだけの固さを得る代償として、脆さとかたち自体の変化を受け入れざるを得ないという、やきもの独特の秩序の在り方。焼成の途中で倒れたことで、横に流れるような釉薬の模様がついた双耳壷に付けられていた、「熟練した作り手でさえもコントロールできない、土と火の格闘」というキャプションが印象的だ。

人工的な制御可能性から免れる、いろとかたち。対称であろうとしながら、不可避的に非対称性をはらんでしまうという随意と不随意の拮抗の中に、対称性・再現性・簡潔性・論理性を追求した先にある「きれいさ」とは異なる、「美しさ」があるのかもしれない。
意図した秩序の実現=固定化=技術性と、意図しない秩序の変容=発散=芸術性のバランス。3Dモデリングと3Dプリンタによる造形過程に、この非対称性の不随意な混入を招き入れることは、如何にして可能だろうか。


2019-06-05

physical, logical, virtual, ethical

logicalとvirtualは、いずれもデータを抽象したものを形容する語であるが、データサイズを減らす際の圧縮方針に違いがあるように思う。

logicalは、当該用途に関する構造を表現可能な範囲で、最大限に圧縮することを指向する。
virtualは、当該用途で処理可能な範囲で、最小限に圧縮することを指向する。

それらの抽象の元として想定される、人間による抽象が一切なされていないデータ、与条件としての「自然な」データが、physicalである。

ethicalは、抽象方法が常識化・慣習化した様を言う。
経路依存性があるため、集団ごとに全く異なるethicsを形成し得るが、physicalの斉一性を想定することで、ある程度の共通部分があるとみなすことは可能である。ethicalは、physicalがこうであるべきという規範、あるいはこうであってほしいという願望へと裏返ることで、集団がそのままであり続けようとするホメオスタシスの慣性を生み出す。

現実世界というPhysical Reality。
人間の知覚センサと周辺機器の性能が許す限りの範囲で、より多くのデータを盛り込もうとするVirtual Reality。
元となるPRを再構成可能な範囲で、より簡潔な表現を目指そうとする、数学、俳句、詩、抽象絵画などのLogical Reality。
PRにオーヴァーラップすることで、人間集団の瓦解を防ぐEthical Reality。

2019-06-04

二股の発展形はマルチマタ。
単数形ならヒトマトン。
独身者はオートマトン。

2019-05-30

文明の距離感

文明とは、見知らぬ人間同士が間接的に判断基準を共有することで密集した状態だと言える。
An At a NOA 2018-06-14 “文明
距離が生み出す齟齬という問題は、文明化と表裏一体のように思われる。
An At a NOA 2019-05-29 “犯罪と自然災害
顔見知りか否かという距離空間においては遠いにも関わらず、物理的な距離空間での近接を許容せざるを得ないという状況に、文明社会ではしばしば遭遇する。常識という距離空間において近いとみなすことでその状況を甘受することが、文明人には強く求められているようにも感じるが、そのこと自体が既に問題をはらんでいるのだと思われる。

パーソナルスペースに不特定多数の対象が侵入できる状況そのものが恐怖の種である。一方で、その恐怖の種が狭い共同体を超えたコミュニケーションを通した創造を促すことで、文明の急速な発展を可能にしたとみることもできる。文明が、急速な発展のためにその恐怖の種terrorを必要とする限り、テロリズムterrorismは文明の不治の病であり続けるということなのかもしれない。

情報空間において別の距離空間をつくることで、その不治の病を治すことはできるだろうか。しかし、匿名性の高い情報空間でのやり取りをみるに、距離感があまりに隔たっている距離空間を併存させること自体に、恐怖の種が埋まっているのだと思われる。

2019-05-29

犯罪と自然災害

現実はあまりに膨大な量のデータで構成され、データはしばしば複雑に絡み合っている。その現実を余すところなく把握することは、人間にはそもそも不可能なのかもしれないが、処理可能なデータサイズのモデルへの圧縮を繰り返し行い、圧縮された複数のモデルを組み合わせたものを元の現実と同一視することで、近似的にではあるが把握しようとすることはできる。
これは、理解という人間らしい処理過程だ。

個々のモデルは単純で低次元で低自由度であったとしても、切り口が異なる多くのモデルを組み合わせることで、可能な限り元の現実の複雑さに接近することはできる。ただし、それには多種多様な切り口で現実と向き合うだけの手間がかかる。ある切り口での単純化が、現実のある特徴をよく捉えることで、短時間で効率よく理解できることもあるが、元の現実の複雑さの大部分は削ぎ落とされてしまう。対象としている現実からの距離が近いほど、現実とモデルのちょっとしたズレが目立ち、大きな違和感につながることもあるだろう。距離が生み出す齟齬という問題は、文明化と表裏一体のように思われる。

犯罪であれ、自然災害であれ、人が死んだという現実を、一つのシンプルなストーリィで処理すること自体に少なからず限界がある。神様と同じくらい虚構であった「自由意志に帰せられる責任」という概念の虚構性は、テロリズムという言葉が人口に膾炙するにつれて顕になってきているだろうか。
神を必要としなくなり始めてからニーチェが宣言するまでに数百年のレイテンシがあったのと同じように、人間が責任概念に頼らないでいられることを自覚するようになるのは、まだしばらく先のことなのかもしれない。

2019-05-23

ルポ 人は科学が苦手

三井誠「ルポ 人は科学が苦手」を読んだ。

自分の周囲の局所的な情報だけを利用するのではなく、空間、時間、文化、種など、あらゆる意味で、できるだけ広い範囲の情報を利用し、さらにその外部には別の情報が存在し得ると想定した上で、その時々に手に入る情報にできるだけよくフィットする、シンプルな説明を構築する行為が、科学なのではないかと思う。

つまり、局所的な経験に対する説明の中でも、
 1. 局所をできるだけ広くとる
 2. 局所を大域だとみなさない
 3. 説明は経験に整合している
 4. 説明はなるべくシンプルに
 5. 説明の仕方は変化してよい
という傾向があるものが科学と呼ばれる。

人間に難しいのは、1と2だろうか。
あるいは、5ができないために、3と4に従って構築された説明が、1についていけないのだろうか。
そもそも、元々一つの局所を共有してこなかった人間同士が、1によって半ば強制的に一つの局所にまとめられていくことに不具合があるのか。

2019-05-22

ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス

昨日は夕方には雨が上がっていたので、「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」を観に行った。

知識の継承は、紙に文字が書かれた書籍というかたちだけでなく、電子書籍、インターネット、点字、朗読、絵本、写真、講演を通した口承、ダンスや音楽といった身体行為、など、実に様々な媒体を介して行われる。そこで継承される知識の内容の多様性も然ることながら、ニューヨーク公共図書館(NYPL)で取り扱われる媒体の多種多様さに驚いた。NYPLでは知識が渦巻いている。ワイズマンによる構成は、その渦巻いている雰囲気をよく伝えるものだった。

ただ単に知識をアーカイヴするだけでなく、知識の渦巻きを体現するというあたりに、これからの図書館像があるのかもしれない。

p.s.
映画の後半、パークチェスター分館で若者向けの数学関連の蔵書や企画について話し合うシーンを観ていて、高校入試のときに書いた分数の足し算についての小論文のことを思い出した。
「1/2+1/3は、なぜ2/5ではなく5/6なのか説明せよ」というような出題に対して、「分母の2や3は分類の種類を表すので、同じ分類の仕方に揃える必要がある」というような論旨で記述したと思う。15歳の自分がそこまで気付いていたとは思えないが、この捉え方には、割り算とは同値関係に基づく同値類への分類であるというニュアンスが含まれている。

2019-05-21

早送りの仲夏、このところの映画

東京では、今日梅雨が来て、明日には夏が来るかのようだ。
早送りの仲夏。
雨が強くて外に出るのが億劫になるが、岩波ホールに「ニューヨーク公共図書館」を見に行きたい感はある。

最近は「ROMA/ローマ」と「アンダーグラウンド」を観た。
いろいろな条件が重層し、要素間の関係が密になるほどに、現実は現実らしさを増していく。それを疎結合された記号群に置換すれば、シンプルでわかりやすくなるものの、現実感は薄れる。「要素」や「関係」なるものも、事後的に想定されるものかもしれないが、さりとて全く抽象しないのであれば、それは端的に現実であり、現実感は感覚されないだろう。この2作は、複雑なものが複雑なままに伝わってくるような、現実感のある作品だった。それができるのは、現実の複雑さを監督自身が間近に経験したからこそかもしれない。

4DやVRのような、情報伝達のヴァリエーションの変化も、現実感を増す方法であるが、それとは別の密度感、臨場感、切迫感から生まれるrealityがあって面白い。
独立変数に対する拘束条件の数が多ければ多いほど、possibleからrealへと近づく。
An At a NOA 2018-01-09 “actualとvirtual

2019-05-13

協力と裏切りの生命進化史

市橋伯一「協力と裏切りの生命進化史」を読んだ。

反射律、対称律、推移律によって特徴付けられる同値関係が成立している状態を「協力」と呼べば、この同値関係の解消のうち、特に対称律が破れることによるものを「裏切り」と呼べるだろう。

分子、細菌、真核細胞、多細胞生物のように、複数だったものが一つの単位として振る舞うようになるのは、同値関係によってある集合を商集合へと写像する除算過程の一種である。それは確かに「協力」の賜物であるが、ときに「裏切り」が発生し、別の同値関係が可能になることで、同値関係の妥当性を検証しながら環境に適応する協力体制を整えることができる。

一つの同値関係に固執すれば壊死する一方で、同値関係の解消に徹すれば瓦解する。ある同値関係を維持しようとする「協力」と、その同値関係を解消しようとする「裏切り」の綱引きが、絶妙にバランスするところにだけ、生命を見出し得るのではないかと思う。

2019-05-12

アナクロ

anachromism = ana(against) + chrono(time)

クロノスを逃れ、カイロスへ。
強権的に付与される時間へのレジスタンスとしてのアナクロニズム。

電子書籍が普及する中、あくまで紙の書籍に拘るのも、読書家としての一つのアナクロニズムである。

2019-05-10

リアルバーチャリティ

なんでもありの世界に厳格なルールを持ち込むことで実現されるバーチャルリアリティ(VR)に対して、厳格な世界になんでもありのお約束を持ち込むことで実現されるものをリアルバーチャリティ(RV)と呼びたい。

要するにリアルバーチャリティとはごっこ遊びである。

厳格なルールのおかげで、半ば自動的に構成されるVRに対して、RVを構成するには、お約束を飲み込むだけの想像力が各自に必要とされる。VRは身体によって構成され、RVは精神によって構成されるとでも言えようか。

RVを構成するのは難しいようではあるけれど、宗教、国家、貨幣など、人間は実に多くのRVを共有している。それにも関わらず、そのことに無頓着でいるあたりに、人間らしさがあるように思う。

エンターテインメントとアジテーション

感情のコヒーレンスの高まり。
Rise of emotional coherence.

局所的・一時的であればエンターテインメントに、大域的・永続的になるとアジテーションになる。両者を特徴付けるのは、感情の種類ではなく、時空間的に局在するか遍在するか、である。

2019-05-07

理解・意味・知識・科学

高次元科学への誘い

理解:
そのまま処理するにはあまりに膨大なデータを圧縮し、データサイズを小さくすること。経験や認識もデータ圧縮プロセスであるが、意識的な理由付けを伴うものが理解understandingだと言える。

意味:
高次元空間に分布しているデータが、その中にある低次元多様体上に偏って分布していると近似的にみなすことで、データサイズが小さくなる。低次元多様体というかたちformを与えることによる、データdataから情報informationへの抽象化。意味meaningとは、データの偏りでも低次元多様体でもなく、データの偏りを低次元多様体へと写像する進行形のプロセスである。

知識:
データをどのように圧縮するかについての判断基準。どのようなデータの振る舞いを一つの塊とみなすか、という同一視の基準。商集合をつくる際の同値関係。理解のプロセスにおける基準を知識knowledgeと呼ぶ。判断基準は、抽象するたびに更新される。

科学:
共通する経験を理解することによる知識の更新。ハードウェア的なデータ圧縮を、意識によるソフトウェア的なデータ圧縮でなぞる試み(科学が試みであることを忘れて、知識の更新が滞ってしまったら、それは似非科学と非難されてもしょうがない)。ハードとソフトの区別は、判断基準更新の緩急に対応する。意識に比べて相対的にハードであるほど自然科学として扱われるようになる。人間の集団もまた、大きくなるほど慣性を増し、ハードになっていくが、文化、言語、宗教、経済といった人間の集団がみせるみせる振る舞いは、意識に比べてそれほどハードでないことも多いようで、人文科学として扱われる(ある時点での集団の振る舞いを固定的なものとみなすことで、人文科学を自然科学に近付けることに成功したのが、構造主義なのだろう)。


このところ考えているこういったことを踏まえて、冒頭のリンク先の記事を読む。

意識による「理解」というのは、かなり圧縮率の高い抽象過程だと思われる。圧縮率の高さは、小さい容量でより多くのデータを処理する上では利点になる一方で、圧縮率の低い別のプロセスをなぞる上では自由度の不足という欠点にもなる。

この欠点は人間に認知限界をもたらすが、深層学習によって容量の問題が解決するなら、「理解」をより圧縮率の低いプロセスで置き換えることで、認知限界を乗り越えることができる。これが科学の高次元化の肝だと思うが、以前書いたように、深層学習には専門分化と構造的な共通点があり、高次元科学は専門分化と同じような利点と欠点を備えているように思う。
An At a NOA 2017-09-15 “専門分化
An At a NOA 2018-11-26 “専門家と機械学習

専門分野への切り分けと、複数の意識のクラスタ化によって、経験を理解する際の自由度不足の解消と知識更新の高効率化を図ったのが専門分化であるが、その際、専門分野が互いに素であることと、扱われる経験が同一であることは、暗黙のうちに前提される。専門分化によって、利点と表裏一体だった欠点を解消することで、集団としての「理解」可能性が高まる反面、単一の意識による「理解」は次第に難しくなっていく。「理解」と経験に齟齬があるたびに知識を更新するプロセスが高速化し、単一の意識では不可能なまでに
集団としての「理解」可能性を高められたとしても、個々の意識による「理解」が難しい中で、齟齬による損害をどのように受け入れるかは別問題として残る。責任という概念をつくり出すことでこのギャップを和らげているものの、綻びは至るところで見受けられてきたように思う。その綻びは、標語的には「安全と安心の乖離」と表現できる。

より精確な近似への欲求と、より簡潔な近似への欲求というアンビヴァレンス。どちらに振れても意識は不要になるだろう。世界をより精確に経験しようとした意識が、その果てに意識の消失に辿り着くという物語は面白いが、それを面白がる意識でありたいと、我は思う。

2019-05-01

統計思考の世界

三中信宏「統計思考の世界」を読んだ。

統計的手法というのは、人間がすべてを理由付けによって把握するにはあまりに大量なデータを、何とか理由を保持しながら扱うためのものだと思う。
An At a NOA 2017-05-05 “統計
大量のバラバラなデータのうち、それとなく揃っている部分を一つの塊とみなすことで、データサイズが小さくなり、データ処理にかかるコストは減少する。これはデータ圧縮の過程である。適切な圧縮ができれば処理能力の向上につながる一方で、不適切な圧縮をしてしまえば処理自体が破綻する。処理の破綻を可能な限り免れ続けるには、データの変化に合わせて圧縮方法の適切性を常に検証し、必要に応じて別の圧縮方法を試し続ける他ない。

この一連の試行錯誤はつまり「何をsignとするか」についての試行錯誤である。人間というのは、何かを見たり聞いたりする知覚のレベルでの「自然な」signだけでなく、言語、宗教、科学など、様々なかたちで結実している「不自然な=人工の」signによる圧縮を、半ば投機的に試みることで、他の存在に対する相対的な処理能力を向上させてきたのだと思われる。その様を伊藤計劃は「人間は無意味に耐えられない」と表現した。

不用意に行われればバグのようなものになるであろう投機的な圧縮に、「理由」を付けることで暫定的な適切性の検証とし、その成功率を上げるというのが、思考や意識と呼ばれるものの特徴なのだと思う。統計学は、「これをsignにすることができる」という意味でのsignificanceに理由を与える試みである点で、まさに意識的な分野である。

そのまま把握するにはあまりに膨大なデータである世界というものを「理解=理由付けて圧縮」するにあたり、数式もグラフも駆使しながら、どのようにして圧縮や理由付けできるのか、あるいはすべきかについて試行錯誤するプロセスである統計思考。その面白さの伝わってくる本であった。

2019-04-30

映画と漫画

映画と漫画の共通点は、時間と空間のコラージュにあるように思う。

いわゆるコラージュは、20世紀初頭のパピエ・コレに由来する絵画技法のことであるが、既存の秩序ではバラバラであったものを新たに組み合わせ、別の秩序をつくるという点では、およそすべての芸術は広義のコラージュである。

映画は時間的な配置によって空間をつくり出し、漫画は空間的な配置によって時間をつくり出す、という違いはあるかもしれない。

自明

ある判断をするにあたり、判断基準が既に一致しており、その基準を採用することについて、別段の意識的な理由付けが必要とされない状態のことを、自明trivialと言う。

自明性の採用は部分的な思考停止であり、それによって、当該自明性に支えられた別の思考を展開することが可能になる。一方で、自明性には、どの集団や状況にとって自明なのかという問題が常につきまとう。

自明性によって思考に埋め込まれるバイアスは、思考にとって、指針であると同時に制限でもあるということだ。ハードウェアとソフトウェア、通信可能性と応答可能性の話と同じである。

2019-04-19

宇宙の暗黒問題

日経サイエンス2019年5月号の特集「宇宙の暗黒問題」を読んだ。

元々もっている物理的身体の範囲を大きく超えて広がる観測事実の集合を基にして、整合的な説明を与える閉じたモデルを構築する試みには、意識らしさが現れていて好きだ。

スワンプランド予想、暗黒物質理論、修正重力理論のいずれにしろ、自らのいる宇宙なるものを理解したいという衝動に後押しされており、そこに意識特有の傾向があるように思う。

暗黒エネルギーや暗黒物質は、周転円やエカントと同じ運命を辿るだろうか。そもそも宇宙universeはuniなのか。

オッカムの剃刀を振るわないといけないという考えもまた、それはそれで一つの信念に過ぎない。

p.s.
そう言えば、「宇宙が膨張する」という文脈において、距離概念はどういう扱いになっているのだろう。
暗黒物質の影響として想定されている現象を、距離空間の変化として説明することは、つまりは修正重力理論と同じということになるだろうか。

古典的、あまりに古典的

ノートルダム高額寄付に怒り

独楽の回転と停止。
回した独楽が安定した回転運動を始めた後で、それが停まる前に手を加えるのはためらわれる。長く続いてきたものを是とするのは、生存戦略としては妥当であるとする態度だ。

古典的classicとは、分類体系classificationを維持しようとする傾向のことである。ホメオスタシス、固定化、収束と同類であり、行き過ぎればアリジゴクの中心へと壊死する。

宗教的、政治的、経済的な上層階級同士が互いの階級秩序を支え合う様に映ることで、いずれの階級制度においても下層に分類される集団から反発を受けているという点で、ノートルダムへの高額寄付への反発の一件は、かつてこれら3つの階級制度が一体のものだった時代と同じことの繰り返しに見える。

秩序的であることを維持することは、特定の秩序体系を維持することとは別のことである。後者に固執することで壊死した集団が革命revolutionによって刷新されても、結局は同じところに戻ってくるのは、あまりに人間的な、というよりも、あまりに生命的な現象なのだろうか。

2019-04-16

対称性人類学

中沢新一「対称性人類学」を読んだ。

対称性論理と非対称性論理という区別は、抽象過程における同一視の基準の変化の緩急の違いに対応しているのだと思われる。

非対称性論理では、同一視の基準を固定化し、抽象の仕方を不変・普遍なものにすることが目指されるのに対し、対称性論理においては、場面に応じて基準が変化する。ただし、対称性論理においても、基準が全くランダムに変化してしまえば、「対称性論理」という一つのものとして維持されないため、許容される変化の仕方にも、何らかの傾向が現れざるを得ない。宗教、神話、科学、意識、無意識、などとして概念化されるのは、その傾向である。

結局、対称性論理と非対称性論理の区別も、「どのような同一視の基準の変化の仕方を是とするか」という同一視の基準に基づく抽象化の現れである。「非対称性」や「形而上学」として批判されているのは、「同型」であることの基準を一途に固定化しようとする傾向であり、何らかの基準に基づいて同一視すること自体は避け難いように思う。それは、何かを認識したり、理解したりすることそのものである。

2019-04-14

ニッポン制服百年史

弥生美術館で「ニッポン制服百年史」を観てきた。

似通ったもののうち、特定のものにだけ目印がつくことで、新しい集合が形成される。ここには構造と装飾の関係が現れているように思う。差異の導入によって、既存の同質性が解消され、別の同質性が生じるとき、導入された差異は装飾、元の同質性の基準は構造と呼ばれる。装飾だったものは次第に構造となり、いつかまた次の装飾が現れるまで、同質性は維持される。それはあたかも生命のようである。

軍服というコンテクストは捨象され、和装の文化、経済的な都合、耐久性の条件などを反映しながら「制服」というカテゴリが形成される。同質なものとして固定化しつつある一方で、タータンチェックやコギャルファッションなどの逸脱が時折装飾として導入され、その時々の通信媒体によって伝搬されながら、空間を超えて新しい同質性を形成していく。流行っては廃れる過程の中で淘汰された同質性も、このような展覧会を通して、時間を超えて束の間でも生き返るだろう。

一つのuni+かたちformを志向しながらも、固定化した一に留まることなく、また、いたずらに瓦解してしまうこともなく、常に変容しながら存続していく「制服」は、とても生命的な文化だと思う。

2019-04-13

反復性と追体験

ゲンロンβ32-33「反復性と追体験」を読んだ。

何かを反復するというのは、個別的なものから一般的なものへの抽象化である。

一回一回違っているものを同じだとみなすという対称性を導入し、データの自由度を減少させているという点で、ヘーゲルの「次元の縮減」にもつながるように思う。

十分に反復されたものはハードウェアのように固定化し、もはや反復が意識されることはなく、同じであることは自明視される。

ゲームとは、既存のハードウェアとは異なる判断基準に基づく反復を実現する試みである。その反復が共有されずに途切れてしまうか、それが新たなハードウェアとなり反復が意識されなくなるまでの束の間に訪れる、同じ抽象化をしているという追体験の感覚が、
快楽なのではないだろうか。

2019-04-11

新記号論

石田英敬、東浩紀「新記号論」を読んだ。

dataのコヒーレントな振る舞いが、informationという一つの塊へと抽象される過程全般を扱うのが、記号論だと思う。何をdataとするか、どのようにコヒーレントなのか、どのくらいの粒度のinformationとして圧縮するか、などの判断基準の違いに応じて、様々なタイプの抽象過程が考えられる。水分子のコヒーレントな振る舞いが、雲や波や氷山とみなされるのと同じように、突き詰めれば、生命というのも、原子のコヒーレントな振る舞いのうち、判断基準の変化による秩序の更新の仕方が、ある程度人間に近いものを言ったものであり、記号論は実に多様なものを扱うポテンシャルを有している。

生きた抽象過程である世界が、言語とは別の仕方で抽象する状況を捉えるには、言語という抽象過程に特化して展開してきた記号論という抽象過程の判断基準が固定化し、死んだままの状態を放置するわけにはいかない。本書で表明される石田記号論は、そのような意味で、記号論を生き返らせる試みだと言えるだろう。

石田記号論で一番興味深いのは、情報科学や神経学も援用しながら、ハードウェア的・無意識的とでも表現できる抽象過程に着目した上で、それと並行して展開されるソフトウェア的・意識的な抽象過程との関係を丁寧に描いている点だ。

人間や社会を、複数の抽象過程の重なり合いとして捉えたとき、判断基準の変化が比較的緩やかなものによる秩序付けが、判断基準の変化が比較的激しいものによる秩序付けを、ある程度方向付けているとみなすことができる。前者をハードウェア、後者をソフトウェアと呼べば、ソフトウェアにとって、ハードウェアは制限であると同時に、きっかけとなるものだ。ハードウェアとソフトウェアは、無意識と意識、物表象と語表象、イメージとシンボルなどと呼んでもよい。

無意識や情動はハードウェア寄りであり、変化が緩やかであるが故に、個体間で一度コヒーレントな状態になると、意識や理性を遥かに上回る規模や速度でコミュニケーションが成立し、抽象化された個を形成することで甚大な影響を及ぼすようになる。ハードウェアの影響があまりに強力になると、ソフトウェアにとっては制限の側面が強調されることになる。ハードウェア的な部分によって通信可能性を確保し、ソフトウェア的な部分によって応答可能性を確保した上で、判断基準のすり合わせに応えられる状態を自由と言うのであれば、ハードウェアに引きずられてソフトウェアまで固定化した個は不自由である。別の秩序を解体することで己の秩序を維持する過程である消費において、解体する秩序の選択に関する偏りとしての欲動を制御することで、生産と消費の無限循環を形成するアメリカ型資本主義は、まさにそのような意味での不自由さをはらんでいる。ここには、壊死と瓦解の間で揺れる生命にとってのエントロピーの問題が潜んでいる。

意識は、投機的に短絡することで、飛躍や逸脱を含みながらも、理由付けによって縫合しながら連続的に変化する、発散寄りの抽象過程である。理由付けによる理解というのは、所詮は人間の意識だけが必要とする抽象化なのかもしれないが、ハードウェアレベルの影響が、夢見る権利まで侵食ながら、強烈に固定化へと引きずり込もうとする中で、「理解」を通した判断基準の変化を続けなければ、意識は消え失せる他ないだろう。意識にとって、意識の存続の是非を問うことに意味があるのかは不明だが、何かを理解しようとする過程ほど、面白いものはないように思う。

制約としてのハードウェアをソフトウェア的に乗り越えるということではなく、固定化をきっかけとして受け容れながら発散することで、通信可能性と応答可能性を兼ね備えて、壊死と瓦解の間で生き続ける。個になりつづける、自由であるというのは、そういうことなのではないか。

東浩紀自身は言及していないが、「一般意志2.0」につながる考えも垣間見え、とても楽しめる一冊であった。

2019-04-08

奇想の系譜展

日曜日、最終日の「奇想の系譜展」に駆け込んだ。
うららかな春の空の下、上野の山は息の長い桜を楽しむ観光客で溢れかえっていたが、都美は思ったよりも空いていた。

作品から受けるそこはかとないコミカルさが、奇想と呼ばれる所以であるように思う。コミカルcomicalとは喜劇comedy、つまりはディオニュソスの祭礼であり、アポロン的な秩序からの逸脱である。

そのコミカルさに、漫画、アニメ、ライトノベルへと連なる、サブカルチャーの系譜を感じる。

一般意志2.0

東浩紀「一般意志2.0」を読んだ。

人間の生は物理的身体によって制約されている。ある波長の電磁波しか見えず、ある周波数の空気の振動しか聞こえない。もう少し高次の感覚野で言えば、関係ないものまで人間の顔として認識してしまうシミュラクラ現象や、「日本人にだけ読めないフォント」も、そのような制約の一種だと言える。

このように意識されているもの以外にも、人間の行動は様々に制約されており、人間の行動を集積したビッグデータには、人間が想像する以上に構造が埋め込まれている。ルソーの一般意志は、その構造のことを概念化したものだろう。

人間の生の無意識的な構造である一般意志が、コミュニケーションなしに自動的に抉り出されるようになったとき、それだけで行動が決まってしまうとするのであれば、意識は不要である。理性による意識的な判断を併用するのは、端的に言えば、理由を必要とする意識自身のためだ。意識的な理性に頼りがちな現状の民主主義は袋小路に入っている一方で、無意識的な本能に頼り過ぎた民主主義はいつか「生府」を生み出し、不健康・不幸福になる権利を要求するミァハの手によって、壊死と瓦解の二択を迫られることになるだろう。民主主義2.0は、無意識と意識を併用することで、そのいずれでもない民主主義を目指すものだ。

そう言えば、Wシリーズで描かれた真賀田四季の共通思考は、一般意志と同じ概念だろうか。200年以上にわたり世界の在り方に影響を与える存在として、ルソーと真賀田四季の思想を比較するというのも面白いかもしれない。

2019-03-18

腹痛

腹痛の苦痛に不屈の精神で耐え、普通どおりに振る舞う。

ふくつう、くつう、ふくつ、ふつう

2019-03-10

マナーとマンネリ

マナーmannerは守ってほしいけれども、マンネリmannerismは避けたい。

東浩紀がポストモダンとポストモダニズムを峻別していたのに通じる態度だ。

いずれも、固定化と発散の問題である。

イズムの安寧の内に留まる幸福に憧れる一方で、「すばらしい新世界」のジョンのように、不幸になる権利を要求したくなる衝動に駆られるところに、人間らしさというか、生命らしさがあるように思う。

2019-03-08

日本史のしくみ

林屋辰三郎、梅棹忠夫、山崎正和、上田正昭、司馬遼太郎、原田伴彦、村井康彦の対談集「日本史のしくみ」を読んだ。

タテの復興文化である変革はエネルギー論、ヨコの複製文化である情報はエントロピー論。

ある抽象度での詳細を捨象することによって、一つ上の抽象度での情報が現れるという統計力学的視点をもつことで理解されるのは、「歴史は抽象的に繰り返す」ということだ。

こういうものを構造と呼ぶのであろう。

2019-02-14

新しい実在論

マウリツィオ・フェラーリス「新しい実在論」を読んだ。

メイヤスーが近代哲学を「相関主義」とみなすのに対し、フェラーリスは「構築主義」とみなす。単に主体に相関する客体でなく、主体による構築の結果としての客体を扱ったのが近代哲学だ、という見解だ。ここから、修正可能な認識論と修正不可能な存在論の峻別の議論が始まる。

存在には認識から独立した構造がないという信念の下、認識によって構造化=構築されたものを存在と混同するという超越論的誤謬を犯すのが構築主義だ。それに対し、存在には認識に先立つ構造があり(つまり構造的に不透明)、認識によってあらゆる構築が可能な
わけではないというのがフェラーリスの立場である。認識による構造化に対して現れる抵抗、すなわち構造の修正不可能性が存在を特徴付けている。その抵抗は、単なる否定ではなく、認識による多くの可能な構造化の仕方に対して真偽や優劣を与える規定にもつながることで、肯定としてのアフォーダンスの側面も有する。こうして、抵抗かつアフォーダンスを与える環境という存在論が描き出される。「存在するとは、何らかの環境のなかで抵抗するということである」。そのような環境の中で、抵抗やアフォーダンスによって
引き起こされる、認識による構造化の仕方の変化こそ、「存在からの思考の創発」であり、「思考は現実という基盤のうえに生じる」。

さらに、認識によって新たに与えられた構造もまた、記録されることで、認識から独立した修正不可能な構造として存立することが可能になる。すなわち、文書と記録=ドキュメンタリティによって、書き込まれた行為としての社会的対象という、新たな対象が存在可能になる。ここに、フェラーリスは人間らしさを見出している。

除算モデルで言えば、存在は割られる対象で、認識は除数で割ることであり、修正不可能性とは、除算によって構造化される以前に、割られる対象自体がある構造をもっているということだ。この場合、勝手な除算はできず、「よい」除算と「わるい」除算の区別が付くことになる。勝手な除算ができない=抵抗があるというのは、一方で「よい」除算を探る手掛かり=アフォーダンスともみなすことができ、いろいろと除数を変えて割り直してみる=思考することにつながる。割られる対象の修正不可能な構造を、書き込みによってえいやで入れ込んでしまえるのが人間であり、個人的にはそれを投機的短絡と呼んでいたのであった。投機的短絡において、えいやで入れ込んだ構造が修正不可能になるために必要となるのが「理由」だと思うが、ドキュメンタリティの話では、それが「記録」と呼ばれているのだろう。

dataとinformationの相対性の話を思い出せば、存在論と認識論の関係もまた相対的なものであり、dataからinformationへのある抽象過程を認識論だとみなしたとき、そのdataがinformationであるような抽象過程=存在論があるというだけの話のような気がしなくもない。典型的には、思考=心理的身体を認識論としたとき、それは肉体=物理的身体という存在論を基盤としている。では、物理的身体を認識論としたとき、それが基盤としている存在論の修正不可能な構造は、心理的身体にとって修正不可能だとみなされる物理的身体による抽象過程によって埋め込まれる構造よりも真に緩いということはないのだろうか。ある意味では、顕微鏡や望遠鏡のような道具の発明、あるいは近代科学の営みの全てが、その解明を目指しているとも捉えることができ、修正不可能性というのは減少し得るのではないかとも思う。

このあたり、同じ特集の野村泰紀とガブリエルの対談の中で出てくる、波の話が関係あるように思う。ある一貫性のあるコヒーレントなかたちで動いている水分子のパターンを、波と分子のいずれとみなすか。あるいは、原子や素粒子のレベルで捉えることもできる。波だけでなく、イルカや人だって同じだ。個人的には、野村泰紀の言うように、どのレベルを「本当の」存在論とするかは割とどうでもよく、あるレベルの存在論を仮定することで対象を単純化し、高速かつ高効率に思考できるという人間らしさや(これはつまり投機的短絡だ)、そうした過程の中で見えてくる修正不可能性自体が、実は人間の思考様式の反映なのかもしれないという点に面白さを感じる。

存在論と認識論の相対的な関係を遡った先に、それでも修正不可能性は残るかという問いだけに留まっていては、構築主義と同じだろう。フェラーリスだけでなく、ガブリエル、メイヤスー、ハーマン、野矢茂樹など、このところ様々なかたちで実在論への回帰が進んでいる。これらは除算の手がかりを与えることで、なんでもありの除算が許されてしまいかえって除算が不可能な状況、すなわち瓦解に陥ることの回避につながるように思う。この様々なレベルでの実在論の設定は、すべて理由付けに基づいている、あるいはドキュメンタリティから派生している、と言えるだろう。理由付けやドキュメンタリティと呼ばれるものから生まれる、新たな修正不可能性を帯びた構造のことを、因果関係と呼んでいるのではないだろうか。新たな因果関係は、相関関係や別の因果関係などの、既にある修正不可能な構造と相互作用しながら思考を促す。その営みのうちに人間らしさを垣間見るのが楽しみである。

2019-02-09

主語がでかい

いわゆる太宰メソッド。

統計的差別においては、大数の法則への依存が主語をでかくするのである。

「日本」確立の寓話としての竹取物語

618年に成立した唐は、7世紀当時、広くアジアに影響を与えた帝国であったとされる。東アジアの小国の倭国にとって、対外戦略は喫緊の課題であったはずであり、7世紀後半は、唐に倣うべきかと唐に逆らうべきかの間で揺れながら、「日本」と「天皇」を確立しようとしていた時代だったと言える。

乙巳の変(645年)は、百済重視の外交保守派による外交革新派へのクーデターだったが、白村江の戦い(663年)での敗戦で百済重視は行き詰まる。その後、クーデターの当事者でもあった天智天皇は唐化にシフトして「日本」や「天皇」を確立しようとした。これが実質的な大化の改新であったと思われるが、国内外へのアピールとして、乙巳の変の直後に時代設定を改変する必要があったのだと推察される。急激な唐化への反発として起こった壬申の乱(672年)で勝利を収めた天武天皇は、「日本書紀」と「古事記」の編纂、天照大御神の設定や式年遷宮の開始を含む伊勢神宮の確立などを通して、唐の真似事に終止せず、大陸の影響と土着文化を上手く編集するかたちで、「日本」を確固たるものにしようとした。唐という巨人がもたらした不安定な国際情勢の中で、中央集権化によって独立を維持しようとする一連の動きは、大宝律令(701年)の制定をもって、一応は成し遂げられたと言える。

成立から約300年、かつては巨人であった唐も不死身ではなく、907年に滅亡する。その少し前、894年には菅原道真によって遣唐使が廃止されており、9世紀後半にはもはや唐は脅威ではなく、「日本」という国家が確立されるきっかけを与えたかつての脅威として語られるものになっていたのかもしれない。それが竹取物語だと考えてみるのも面白い。

擬人化された律令国家としてのかぐや姫が、竹のようにすくすくと成長し、壬申の乱の面々を翻弄する物語。月は唐であり、帝は天武天皇だろうか。その一連の物語をまとめたのは、菅原道真だろうか。

歴史にも竹取物語にも諸説があり過ぎて空想の類にしかならないが、どこか腑に落ちるところもある。

2019-02-08

きれい

雑多な情報が濾過されることで、特定の情報だけが抽出される。その抽象過程を経たものを形容する言葉が、「きれい」である。
An At a NOA 2018-08-07 “濾過
複雑なデータが簡潔な情報へと濾過されてできた、きれいなもの。多くの対称性を有することで、パラメタの少なさと不釣り合いなほどに膨大な対象を表現し得る点に、きれいさが宿るのだろう。

対称性が獲得される過程で、非自明な自己同型にそぐわない「きたない」部分は削ぎ落とされる。ときに、その「きたない」部分に目をつけることが、新たな視点をもたらすこともある。

1を聞いて10を知る

1を聞いて10を知るのは、1をやり取りした両者が十分に文脈を共有していれば難しくない。情報の圧縮効率は、パターンが固定化しているほど高くなるということだ。

溜め込まれた知識は、固定化したパターンである。迅速なコミュニケーションが必要なときには有用であるものの、パターンをリセットしたり、別のパターンを見つけたりするには、それらを一旦抽象しなければならない。

1を聞いたとき、0や虚数単位iを知れるだろうか。

知者不博博者不知
A wise man has no extensive knowledge;
He who has extensive knowledge is not a wise man.
老子
Lao-tzu

2019-01-31

息吹

テッド・チャン「息吹」を読んだ。

エネルギーの流れを介して維持されるパターン。局所的にエントロピー増大から逃れるその様には、生命を見出すことができる。

エネルギーの流れが止まればパターンは解消され、それを構成していたエネルギーや物質は残っても、生命は消え去る。

熱学思想の史的展開」の最後で山本義隆が指摘していたことを、熱力学の教科書でも、ありがちなディストピア小説でもないかたちで、極めて素直に描き出している。

これは、熱力学第二法則についての傑作である。

2019-01-25

1^1+2^2+3^3

=1+4+27=32
ということで32になった。
(そろそろネタがない)

昨日今日は泊まりで高知出張であった。7件ほどの敷地を回りながら、設計の構想を話し合う。高知で活躍する同世代の様子を垣間見えたのもよい刺激になった。

敷地、既存躯体、慣習、標準というのは、抽象的にはいずれも強力なコンテクストという同じカテゴリのものとみなすことができる。それらを尊重するのが大切である一方で、壊死しないでいるためには瓦解に至らない程度に逸脱することも必要になる。
絞り過ぎず、緩め過ぎず。
壊死と瓦解の間で揺れ動く抽象過程を、幾重にも重ねたまま。
おとなしくもあり、ややこしくもある人間であろう。

2019-01-17

天然知能

郡司ペギオ幸夫「天然知能」を読んだ。

抽象過程は、部分対象をとると見るか、商対象をとると見るかによって、双対な二つの方法でモデル化できる。前者はメイヤスーの言う減算モデルであり、つまりはフィルタリングなので、外部に気付くのに適している。一方、後者は除算モデルであり、こちらは同一視なので、判断基準の変化に気付くのに適している。

指定の軸と文脈の軸という二つの軸も、減算モデルと除算モデルに対応するのだと思うが、二つの軸の接続というのは、その双対性を言うものなのか。あるいは、二つの抽象過程が重なることを言うものなのか。

人工知能や自然知能にとって、判断基準の固定化による壊死が危機であるのと同じように、天然知能にとっては逸脱の行き過ぎによる瓦解が危機となるように思われる。天然知能が瓦解せずにいられるのは、逸脱が逸脱であると判定する、当該抽象過程を抽象する別の抽象過程があるためだとすれば、二つの軸の接続は後者の意味にも取れる。

しかし、当の天然知能は判断基準の変化を伴う一つの抽象過程というだけで、判断基準の変化の中に逸脱やホメオスタシスが見出されるのは、二つの軸の接続というモデルを通して天然知能を観察するためなのかもしれない。だとすれば、天然知能モデルは抽象過程の双対性を表したものだと捉えられる。二種類の軸を明示するのは冗長ではあるものの、外部と判断基準の変化の両方を顕にする点でわかりやすいと言える。

判断基準の変化が速いものもあれば遅いものもあり、それぞれのペースで天然知能は寿命を全うしている。文章や図でその生き様を十全に描くのは、そもそも無理なのかもしれないが、描こうとすること自体が一つの天然知能となる。天然知能に触れるには、自ら天然知能となる他ない。

2019-01-13

GODZILLA

アニメ映画の「GODZILLA」三部作を観た。

生命の完成に着地したビルサルドと、完成し得ない生命の輪廻に着地したエクシフ。抽象度の違いはあれど、生命をどこかに着地させることが、生命らしさを喪失することにつながってしまうというパラドックス。

明解で普遍的な唯一の答えがあり得るという信仰の中に、ゴジラやメカゴジラやギドラが巣食っている。答えは自然と人工の差異を生み出し、その差異がいつか怪獣として顕になる。

生きるとは、一つの怪獣を倒すために別の一つの怪獣に頼ることでも、怪獣を避け続けることでもなく、様々な怪獣と次々に出会うことだろうか。その答えへの着地ですら、一つの怪獣へと収斂するのかもしれない。
生きるのは難しい。

2019-01-09

ショッピングモールから考える

東浩紀・大山顕「ショッピングモールから考える」を読んだ。

苛酷な外部の中に生み出された、一つの世界観をもった内部。テーマパークやショッピングモールもまた、宗教や政治、文化と同じように、そのような内部の一つであり、同一の世界観に支配された純粋な内部は、自然に対する人工としてのユートピアとなる。

生み出されたばかりの内部は純粋だが、純粋さを維持するには努力を要する。それを担うのがバックヤードだ。メンテナンスを怠れば、熱力学第二法則に従って、内部は次第に複雑化していく。それを不純化と呼ぶのか、多様化と呼ぶのか。外部として括り出される砂漠や商店街もまた、かつて純粋だったものの名残りなのだろう。エントロピーの増大したかつての内部を外部としながら、新しい内部を生み出していく過程そのものが、とても生命的で面白いと思う。

一方で、純粋さを完璧に維持し続ける内部に対して、人間が完全に順応してしまえば、個体としての人間は思考する必要がなくなり、意識は不要になる。その代わり、人間を包含した内部そのものが、苛酷な外部環境に生きる生命になるだろうか。意識を失った人間がショッピングモールという生命の一部として機能する様を、現在の人間はディストピアとして憐れむかもしれないが、単細胞生物が多細胞生物に覚える憐れみを、多細胞生物には知る術がない。意識をもった人間のままであろうとするならば、揺るぎないユートピアは遠くから眺め、たまに訪れるくらいにして、儚いユートピアを次々に生成するのがよいのかもしれない。これは、そもそも現状がそれほど苛酷でない環境にいるからこその考え方だろうか。

最近月一で訪れるマニラには、都市の中に巨大なショッピングモールが点在している。マニラでショッピングモールに行く度に、ショッピングモールらしさの普遍性を感じるが、それも実は「京都らしさ」とそれほど変わらないものなのかもしれない。局所的な統一感が許容され、大域的な統一感が忌避されるというよりも、ある世界観によって統一されることで局所が定まるのであり、グローバリズムによって現れた新しい「局所」が、これまでの空間的な局所とは違うというだけなのだが、顔見知りでない人と避難所で夜を明かせないのと同じように、慣れ親しんでいない世界観がもたらす「局所」は倒錯として映り、抵抗感が生まれるのだろう。

現実でも虚構でもないシュールレアルとして生まれた内部は、いつかただの現実になる可能性を秘めている。ショッピングモールはどうなるだろうか。こういう「愚かな」ことを考えていたい。

2019-01-03

萩に猪


萩に猪で「亥」。
花札と十二支で共通するのは猪だけ。