2018-11-26

眼がスクリーンになるとき

福尾匠「眼がスクリーンになるとき」を読んだ。

無限集合から有限集合をつくり出す方法は2つある。ひとつは、有限個の要素だけを選び出して部分集合をつくる減算モデル。もうひとつは、整数の集合Zを、7を法として合同とみなす同値関係によって7つの同値類に分割するのと同じように、商集合をつくる除算モデル。

減算が「何をよいとみなすか」の判断基準に基づく濾過であるのに対し、除算は「何を同じとみなすか」の判断基準に基づく同一視である。

観念論と実在論の両極を拒否するベルクソンには同意できるが、その間において、無限の情報dataである全体から、有限の情報informationである総体を抽出する知覚や理解といった抽象過程は、減算ではなく除算とみなした方がすっきりとして、ベルクソンもドゥルーズもメイヤスーも、抽象を除算ではなく減算としてモデル化するから無理が生じるのではないかと思う。商対象と部分対象は双対であるから、結局は除算と減算のどちらでモデル化してもよいのだろうが、ある宇宙で考えると簡単なことも、別の宇宙で考えると複雑になるという事態はあるはずだ。

「何を同じとみなすか」の判断基準に相当する、商環をつくる際のイデアル、あるいは商対象をつくる際の余等化子を固定化してしまえば、生成される総体も固定化され、そこに重なり合うように想定される全体も、固定化したものとして捉えられてしまう。これは適用主義が犯すのと同じ過ちだ。

ドゥルーズの言う「見たまま」や「素朴さ」、あるいは「眼がスクリーンになる」というのは、イデアルや余等化子という判断基準を固定化せず、いつでも除数を変えながら世界を割り直すことで、更新される秩序である生命を、壊死と瓦解の間に留めるということであるように思う。

自在に除数を変えながら、
世界を別のしかたで割り直す。
ときにはゆっくりと。
ときには急激に。
その除数の変化の緩急が、
身体というハードウェアと、
思考というソフトウェアの差となる。
瓦解を免れるために身体を欲する一方で、
壊死を免れるために思考を欲する。
これは、究極的には天才の所業である。

「シネマ」は、壊死させられかけていた映画に対する、ドゥルーズなりの救命措置だったのかもしれない。

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