2018-08-06

ロボット工学と仏教

森政弘、上出寛子「ロボット工学と仏教」を読んだ。

一貫性をもった整合的な判断の積み重ねからは、善悪についての一つの判断基準が生じ、それに拘泥すれば、二元論のアリジゴクに陥る。

そこを抜け出すには、「何を同じとみなすか」の判断基準について自覚的になることで、別の同一視の基準に飛躍することが必要になる。元の理解では異なっていたものを同一視することは矛盾をもたらすが、その不連続点を理由で滑らかにつなぎとめながら、自在に飛躍を繰り返すのが「二元性一原論」的な「理会」の過程なのだと思う。

矛盾をきたす飛躍の瞬間である「無記」は、分化から未分化への変化であり、それが自在にできることこそ、天才の空っぽさである。emptyの語源が“at leisure, not occupied”であることを踏まえて、無記をEmptiness (as undifferentiated state)と訳すのはどうだろうか。

完璧な安全」が危険性をはらむように、「完璧な安心」は不安と紙一重である。固定化によって陥るこの危機を回避し、壊死と瓦解の間で飛躍を繰り返すことの中でしか、安全や安心は維持されない。そのような、更新される秩序としての生命的な在り方こそが「三性の理」だろう。

オルダス・ハクスリー「」にも出ていた拈華微笑の物語のように、以上のようなことは各々が自ら納得するしかないように思うが、その一つの試みとしての文通の記録を読むのは、意外に面白いものであった。

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