2020-03-28

COVID-19と移動

An At a NOA 2011-12-13 “nowhere man
An At a NOA 2014-11-14 “どこでもドアの幻影
An At a NOA 2016-01-30 “移動
An At a NOA 2016-06-30 “定住

COVID-19の影響で世界中の20億人超が外出制限されるなど、人間の移動が一時的に滞った結果、温室効果ガスの排出量は減り、ヴェネチアの運河は透き通った。

「人間は本来環境破壊生物であり、その環境破壊能力こそが人間の繁栄をもたらした。しかし、環境を長く維持するにはエネルギーの制御が必要であり、そのためには人間は移動すべきではない。結果として、人間同士の物理的なアクセスは宝石のような贅沢品になるだろう」
「すべてがFになる」で真賀田四季と犀川創平が口を揃えて言っていた移動の問題は、疫病の世界的流行によって現実化し始めている。

直接性の神話に支えられた社会環境が大いに損害を被る一方で、自然環境の持続性が回復するということになったとき、人間はどちらの環境破壊を取るだろうか。慣性のままに自然環境破壊が優勢だったところに、COVID-19による社会環境破壊が突然に訪れたことで、社会環境を作り変えながら自然環境破壊の速度を緩めるという選択肢も取りやすくなってきた。

  • actual: 人体というセンサ群に入力したとき、不整合や欠損が検出されないというデータセットの性質(本来は逆で、ある特定の分布を有するデータセットに対して適合するように人体が調整されており、その特定の分布を有することをactualと形容すべきだが)
  • virtual: データ量を減らしてactualの一部の性質のみを再現するというデータセットの性質(データ量を増やせばvirtualは限りなくactualに近づき得るが、その分効率は犠牲になる)
  • real: 複数の人体センサが同一の情報を抽象するとき、元になる単一のデータセットがあること(ソースの確からしさ)
  • imaginary: 複数の人体センサが同一の情報を抽象するとき、元になる単一のデータセットがないこと(imaginaryの原義は*aim- = to copyであるが、複製されているのは抽象結果である情報であり、元となるデータセットが抜け落ちている)
とすれば、直接性の神話とはつまり、realを維持するにはactualなデータ通信が必要であるという信仰のことである。virtualのデータ量が少ないと、確かにrealを構築するのは難しくなるが、限られた量のデータを元にrealityを維持することに慣れることができれば、エネルギー消費の観点からは効率的に社会環境を維持できるようになる。その方向転換ができるかの大きな岐路に立っている。

2020-03-11

現像と夢

ゲンロンβ46で大山顕のインタビュー「「表面」を収集する」を読んだ。

写真はどこまでも表面で、その表面性を拡張するものとしての現像行為を拡大解釈していくという話が面白い。

撮影によって収集された潜在的な表面たちが、developingで顕在化し、fixingで新たな像として定着する。processingは、あたかも覚醒中の体験が混ざり合って再現される夢のような過程である。

目や耳といった知覚センサを通して受信できる情報は、世界のデータのほんの一側面に過ぎない。それにもかかわらず、その断片的な情報を元に神経系の上で深層学習を行い、世界を一つの立体的なものとして捉えられるのは驚異的な能力である。この断片から立体への創造的な統合のトライアンドエラーが夢なのだとすれば、現像行為もまた、まだ見ぬ世界の新しい姿を捉える手段として幅を広げていく可能性を大いに秘めているのだろう。

COVID-19所感

災害や疫病といった異常事態に陥ったとき、異常なものを排除して正常に戻ろうとするのは、社会の免疫系としての側面であり、社会の維持存続には欠かせない。その一方で、これまで疑いなく正常とされていたものまでもが排除されていくと、自己を維持するための機構そのものによって自己が瓦解してしまう自己免疫疾患の状態に陥る。

資本主義経済は、人口や生産量などの多くのものがほとんど常に単調増加するという前提に支えられており、元々は価値のないものに次々と価値を与えることでその前提を維持してきた。生命体としての人間を生かす観点からすれば、資本主義経済はほとんど常にバブル経済状態であり、資本主義経済としての社会は、発展すれば発展するほど、夥しい数の不要不急のものを抱え込むことになる。ただし、元は不要不急であったものも、それを取り込んでいく間に依存する部分が生じていき、大域的には不要不急でも局所的には不可欠になることが往々にしてある。

今回のCOVID-19への対応は、従来の災害や疫病への対応と比較して格段に厳しい印象が強い。一種の訓練だと思えば、それをするだけのゆとりがある社会になったと考えることもできる。しかし、既に資本主義経済としての自己が大きくなり過ぎて久しい社会にとっては、この強烈な免疫作用はあまりにつらく、自己免疫疾患の様相を呈し始めているように思われる。何にせよ、単一の判断基準に基づく免疫作用が行き過ぎればディストピアは必至だ。immunityの語源がin-(not, opposite of) + *mei-(to change, go, move)であることを思い出す。先月の講演で聞いた、共同体communityと免疫immunityの対比についてもまた考えたい。