2019-04-30

映画と漫画

映画と漫画の共通点は、時間と空間のコラージュにあるように思う。

いわゆるコラージュは、20世紀初頭のパピエ・コレに由来する絵画技法のことであるが、既存の秩序ではバラバラであったものを新たに組み合わせ、別の秩序をつくるという点では、およそすべての芸術は広義のコラージュである。

映画は時間的な配置によって空間をつくり出し、漫画は空間的な配置によって時間をつくり出す、という違いはあるかもしれない。

自明

ある判断をするにあたり、判断基準が既に一致しており、その基準を採用することについて、別段の意識的な理由付けが必要とされない状態のことを、自明trivialと言う。

自明性の採用は部分的な思考停止であり、それによって、当該自明性に支えられた別の思考を展開することが可能になる。一方で、自明性には、どの集団や状況にとって自明なのかという問題が常につきまとう。

自明性によって思考に埋め込まれるバイアスは、思考にとって、指針であると同時に制限でもあるということだ。ハードウェアとソフトウェア、通信可能性と応答可能性の話と同じである。

2019-04-19

宇宙の暗黒問題

日経サイエンス2019年5月号の特集「宇宙の暗黒問題」を読んだ。

元々もっている物理的身体の範囲を大きく超えて広がる観測事実の集合を基にして、整合的な説明を与える閉じたモデルを構築する試みには、意識らしさが現れていて好きだ。

スワンプランド予想、暗黒物質理論、修正重力理論のいずれにしろ、自らのいる宇宙なるものを理解したいという衝動に後押しされており、そこに意識特有の傾向があるように思う。

暗黒エネルギーや暗黒物質は、周転円やエカントと同じ運命を辿るだろうか。そもそも宇宙universeはuniなのか。

オッカムの剃刀を振るわないといけないという考えもまた、それはそれで一つの信念に過ぎない。

p.s.
そう言えば、「宇宙が膨張する」という文脈において、距離概念はどういう扱いになっているのだろう。
暗黒物質の影響として想定されている現象を、距離空間の変化として説明することは、つまりは修正重力理論と同じということになるだろうか。

古典的、あまりに古典的

ノートルダム高額寄付に怒り

独楽の回転と停止。
回した独楽が安定した回転運動を始めた後で、それが停まる前に手を加えるのはためらわれる。長く続いてきたものを是とするのは、生存戦略としては妥当であるとする態度だ。

古典的classicとは、分類体系classificationを維持しようとする傾向のことである。ホメオスタシス、固定化、収束と同類であり、行き過ぎればアリジゴクの中心へと壊死する。

宗教的、政治的、経済的な上層階級同士が互いの階級秩序を支え合う様に映ることで、いずれの階級制度においても下層に分類される集団から反発を受けているという点で、ノートルダムへの高額寄付への反発の一件は、かつてこれら3つの階級制度が一体のものだった時代と同じことの繰り返しに見える。

秩序的であることを維持することは、特定の秩序体系を維持することとは別のことである。後者に固執することで壊死した集団が革命revolutionによって刷新されても、結局は同じところに戻ってくるのは、あまりに人間的な、というよりも、あまりに生命的な現象なのだろうか。

2019-04-16

対称性人類学

中沢新一「対称性人類学」を読んだ。

対称性論理と非対称性論理という区別は、抽象過程における同一視の基準の変化の緩急の違いに対応しているのだと思われる。

非対称性論理では、同一視の基準を固定化し、抽象の仕方を不変・普遍なものにすることが目指されるのに対し、対称性論理においては、場面に応じて基準が変化する。ただし、対称性論理においても、基準が全くランダムに変化してしまえば、「対称性論理」という一つのものとして維持されないため、許容される変化の仕方にも、何らかの傾向が現れざるを得ない。宗教、神話、科学、意識、無意識、などとして概念化されるのは、その傾向である。

結局、対称性論理と非対称性論理の区別も、「どのような同一視の基準の変化の仕方を是とするか」という同一視の基準に基づく抽象化の現れである。「非対称性」や「形而上学」として批判されているのは、「同型」であることの基準を一途に固定化しようとする傾向であり、何らかの基準に基づいて同一視すること自体は避け難いように思う。それは、何かを認識したり、理解したりすることそのものである。

2019-04-14

ニッポン制服百年史

弥生美術館で「ニッポン制服百年史」を観てきた。

似通ったもののうち、特定のものにだけ目印がつくことで、新しい集合が形成される。ここには構造と装飾の関係が現れているように思う。差異の導入によって、既存の同質性が解消され、別の同質性が生じるとき、導入された差異は装飾、元の同質性の基準は構造と呼ばれる。装飾だったものは次第に構造となり、いつかまた次の装飾が現れるまで、同質性は維持される。それはあたかも生命のようである。

軍服というコンテクストは捨象され、和装の文化、経済的な都合、耐久性の条件などを反映しながら「制服」というカテゴリが形成される。同質なものとして固定化しつつある一方で、タータンチェックやコギャルファッションなどの逸脱が時折装飾として導入され、その時々の通信媒体によって伝搬されながら、空間を超えて新しい同質性を形成していく。流行っては廃れる過程の中で淘汰された同質性も、このような展覧会を通して、時間を超えて束の間でも生き返るだろう。

一つのuni+かたちformを志向しながらも、固定化した一に留まることなく、また、いたずらに瓦解してしまうこともなく、常に変容しながら存続していく「制服」は、とても生命的な文化だと思う。

2019-04-13

反復性と追体験

ゲンロンβ32-33「反復性と追体験」を読んだ。

何かを反復するというのは、個別的なものから一般的なものへの抽象化である。

一回一回違っているものを同じだとみなすという対称性を導入し、データの自由度を減少させているという点で、ヘーゲルの「次元の縮減」にもつながるように思う。

十分に反復されたものはハードウェアのように固定化し、もはや反復が意識されることはなく、同じであることは自明視される。

ゲームとは、既存のハードウェアとは異なる判断基準に基づく反復を実現する試みである。その反復が共有されずに途切れてしまうか、それが新たなハードウェアとなり反復が意識されなくなるまでの束の間に訪れる、同じ抽象化をしているという追体験の感覚が、
快楽なのではないだろうか。

2019-04-11

新記号論

石田英敬、東浩紀「新記号論」を読んだ。

dataのコヒーレントな振る舞いが、informationという一つの塊へと抽象される過程全般を扱うのが、記号論だと思う。何をdataとするか、どのようにコヒーレントなのか、どのくらいの粒度のinformationとして圧縮するか、などの判断基準の違いに応じて、様々なタイプの抽象過程が考えられる。水分子のコヒーレントな振る舞いが、雲や波や氷山とみなされるのと同じように、突き詰めれば、生命というのも、原子のコヒーレントな振る舞いのうち、判断基準の変化による秩序の更新の仕方が、ある程度人間に近いものを言ったものであり、記号論は実に多様なものを扱うポテンシャルを有している。

生きた抽象過程である世界が、言語とは別の仕方で抽象する状況を捉えるには、言語という抽象過程に特化して展開してきた記号論という抽象過程の判断基準が固定化し、死んだままの状態を放置するわけにはいかない。本書で表明される石田記号論は、そのような意味で、記号論を生き返らせる試みだと言えるだろう。

石田記号論で一番興味深いのは、情報科学や神経学も援用しながら、ハードウェア的・無意識的とでも表現できる抽象過程に着目した上で、それと並行して展開されるソフトウェア的・意識的な抽象過程との関係を丁寧に描いている点だ。

人間や社会を、複数の抽象過程の重なり合いとして捉えたとき、判断基準の変化が比較的緩やかなものによる秩序付けが、判断基準の変化が比較的激しいものによる秩序付けを、ある程度方向付けているとみなすことができる。前者をハードウェア、後者をソフトウェアと呼べば、ソフトウェアにとって、ハードウェアは制限であると同時に、きっかけとなるものだ。ハードウェアとソフトウェアは、無意識と意識、物表象と語表象、イメージとシンボルなどと呼んでもよい。

無意識や情動はハードウェア寄りであり、変化が緩やかであるが故に、個体間で一度コヒーレントな状態になると、意識や理性を遥かに上回る規模や速度でコミュニケーションが成立し、抽象化された個を形成することで甚大な影響を及ぼすようになる。ハードウェアの影響があまりに強力になると、ソフトウェアにとっては制限の側面が強調されることになる。ハードウェア的な部分によって通信可能性を確保し、ソフトウェア的な部分によって応答可能性を確保した上で、判断基準のすり合わせに応えられる状態を自由と言うのであれば、ハードウェアに引きずられてソフトウェアまで固定化した個は不自由である。別の秩序を解体することで己の秩序を維持する過程である消費において、解体する秩序の選択に関する偏りとしての欲動を制御することで、生産と消費の無限循環を形成するアメリカ型資本主義は、まさにそのような意味での不自由さをはらんでいる。ここには、壊死と瓦解の間で揺れる生命にとってのエントロピーの問題が潜んでいる。

意識は、投機的に短絡することで、飛躍や逸脱を含みながらも、理由付けによって縫合しながら連続的に変化する、発散寄りの抽象過程である。理由付けによる理解というのは、所詮は人間の意識だけが必要とする抽象化なのかもしれないが、ハードウェアレベルの影響が、夢見る権利まで侵食ながら、強烈に固定化へと引きずり込もうとする中で、「理解」を通した判断基準の変化を続けなければ、意識は消え失せる他ないだろう。意識にとって、意識の存続の是非を問うことに意味があるのかは不明だが、何かを理解しようとする過程ほど、面白いものはないように思う。

制約としてのハードウェアをソフトウェア的に乗り越えるということではなく、固定化をきっかけとして受け容れながら発散することで、通信可能性と応答可能性を兼ね備えて、壊死と瓦解の間で生き続ける。個になりつづける、自由であるというのは、そういうことなのではないか。

東浩紀自身は言及していないが、「一般意志2.0」につながる考えも垣間見え、とても楽しめる一冊であった。

2019-04-08

奇想の系譜展

日曜日、最終日の「奇想の系譜展」に駆け込んだ。
うららかな春の空の下、上野の山は息の長い桜を楽しむ観光客で溢れかえっていたが、都美は思ったよりも空いていた。

作品から受けるそこはかとないコミカルさが、奇想と呼ばれる所以であるように思う。コミカルcomicalとは喜劇comedy、つまりはディオニュソスの祭礼であり、アポロン的な秩序からの逸脱である。

そのコミカルさに、漫画、アニメ、ライトノベルへと連なる、サブカルチャーの系譜を感じる。

一般意志2.0

東浩紀「一般意志2.0」を読んだ。

人間の生は物理的身体によって制約されている。ある波長の電磁波しか見えず、ある周波数の空気の振動しか聞こえない。もう少し高次の感覚野で言えば、関係ないものまで人間の顔として認識してしまうシミュラクラ現象や、「日本人にだけ読めないフォント」も、そのような制約の一種だと言える。

このように意識されているもの以外にも、人間の行動は様々に制約されており、人間の行動を集積したビッグデータには、人間が想像する以上に構造が埋め込まれている。ルソーの一般意志は、その構造のことを概念化したものだろう。

人間の生の無意識的な構造である一般意志が、コミュニケーションなしに自動的に抉り出されるようになったとき、それだけで行動が決まってしまうとするのであれば、意識は不要である。理性による意識的な判断を併用するのは、端的に言えば、理由を必要とする意識自身のためだ。意識的な理性に頼りがちな現状の民主主義は袋小路に入っている一方で、無意識的な本能に頼り過ぎた民主主義はいつか「生府」を生み出し、不健康・不幸福になる権利を要求するミァハの手によって、壊死と瓦解の二択を迫られることになるだろう。民主主義2.0は、無意識と意識を併用することで、そのいずれでもない民主主義を目指すものだ。

そう言えば、Wシリーズで描かれた真賀田四季の共通思考は、一般意志と同じ概念だろうか。200年以上にわたり世界の在り方に影響を与える存在として、ルソーと真賀田四季の思想を比較するというのも面白いかもしれない。