作品としては「ハーモニー」の方が好きだが、
三部作の映画化の中では「虐殺器官」が一番
映像というメディアに合っていると感じられた。
原作のなぞり方もよかったし、アニメーションの
質もとても高かったので、困難を経ても作品として
送り出してくれたスタッフの方々には感謝しかない。
この作品が広く受け入れられるとよいのだが、
果たしてどうだろうか。
ジョン・ポールが問い、クラヴィス・シェパードが答えた問題。
それを外部として括りだそうとジョンが願うのに対し、
クラヴィスは積極的に巻き込もうとする。
そして、物理的に巻き込まずとも、心理的に巻き込み、
それを思考することを伝えてくれたのが伊藤計劃だ。
それは進化の過程で必然的にもたらされた器官にすぎない。映画は、母の死のストーリィとともに自我という器官の問題を
ぼくの肉体の一部である、自我という器官、言語という器官に。
伊藤計劃「虐殺器官」p.125
切り捨てることで、言語の問題の方に集中していたと言える。
パンフレットにもそのことが書かれていたが、うまくまとまって
いてよかったと思う。
けれども、本当はジョンが分けようとしたものとクラヴィスが
抱える「ぼく」の問題は同じものだ。
先進国を後進国から言語によって切り離すこと。
自分と他者あるいは環境を言語によって切り離すこと。
そこに現れるのは自由の問題だ。
自由とはそうした様々な自由の取引なのだ
同p.178
さまざまなリスクを考慮して、自分にとって最適なものを「選ぶ」2016年の2つの選挙の結果は、同種の問をはらんでいるのは間違いない。
能力が「自由」なのだ。
同p.353
人間は自分自身の「器官』によって滅びる生物となる道を邁進するだろうか。
長い牙によって滅びた、サーベルタイガーのように。
同p.126
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