2018-04-01

「百学連環」を読む

山本貴光「「百学連環」を読む」を読んだ。

西欧人が自然を読んで西欧学術をなし、西周が西欧学術を読んで「百学連環」をなし、山本貴光が「百学連環」を読んで「「百学連環」を読む」をなし、私が「「百学連環」を読む」を読んでこの文章をなす。

受け取った抽象から、それが想定していた具象を再構成し、自らの判断基準に従って、判断基準の変化も伴いながら、新たに抽象する。この抽象過程の連鎖は、学と術の連鎖であり、
文學なくして眞の學術となることなし。
西周「百學連環」第二一段一一〜一五文
というのは、抽象から具象を再構成する能力であるリテラシーの重要性を言ったもののようにも思える。言葉をつくるというのは、最も抽象的な行為であり、西欧学術の多くの概念を日本語に抽象した西周の抽象能力は抜群であると思う。

学術の分類について、普通commonと殊別particularの違いは抽象度の差、心理intellectualと物理physicalの違いは判断基準の固定度の差ではないかと思う。時代、場所、集団によって判断基準が異なることで、普通と殊別、心理と物理の境界は変化するはずであり、むしろその境界こそ、判断基準の個性にあたるものだと言える。唯物論とは、物理が幅を利かせ、判断基準が完全に固定化した世界観である。それを採用すれば、あらゆることがわかるものとして捉えられるようになるかもしれないが、ソフトウェアのないハードウェアは脆弱である。その逆もまた然りだ。

心理的な部分がなければ、集団は固定化し、物理的な部分がなければ、集団は発散する。心理と物理の均衡が取れていなければ、どのような学術も、壊死と瓦解の間で存続することはできないように思われる。

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