2019-01-31

息吹

テッド・チャン「息吹」を読んだ。

エネルギーの流れを介して維持されるパターン。局所的にエントロピー増大から逃れるその様には、生命を見出すことができる。

エネルギーの流れが止まればパターンは解消され、それを構成していたエネルギーや物質は残っても、生命は消え去る。

熱学思想の史的展開」の最後で山本義隆が指摘していたことを、熱力学の教科書でも、ありがちなディストピア小説でもないかたちで、極めて素直に描き出している。

これは、熱力学第二法則についての傑作である。

2019-01-25

1^1+2^2+3^3

=1+4+27=32
ということで32になった。
(そろそろネタがない)

昨日今日は泊まりで高知出張であった。7件ほどの敷地を回りながら、設計の構想を話し合う。高知で活躍する同世代の様子を垣間見えたのもよい刺激になった。

敷地、既存躯体、慣習、標準というのは、抽象的にはいずれも強力なコンテクストという同じカテゴリのものとみなすことができる。それらを尊重するのが大切である一方で、壊死しないでいるためには瓦解に至らない程度に逸脱することも必要になる。
絞り過ぎず、緩め過ぎず。
壊死と瓦解の間で揺れ動く抽象過程を、幾重にも重ねたまま。
おとなしくもあり、ややこしくもある人間であろう。

2019-01-17

天然知能

郡司ペギオ幸夫「天然知能」を読んだ。

抽象過程は、部分対象をとると見るか、商対象をとると見るかによって、双対な二つの方法でモデル化できる。前者はメイヤスーの言う減算モデルであり、つまりはフィルタリングなので、外部に気付くのに適している。一方、後者は除算モデルであり、こちらは同一視なので、判断基準の変化に気付くのに適している。

指定の軸と文脈の軸という二つの軸も、減算モデルと除算モデルに対応するのだと思うが、二つの軸の接続というのは、その双対性を言うものなのか。あるいは、二つの抽象過程が重なることを言うものなのか。

人工知能や自然知能にとって、判断基準の固定化による壊死が危機であるのと同じように、天然知能にとっては逸脱の行き過ぎによる瓦解が危機となるように思われる。天然知能が瓦解せずにいられるのは、逸脱が逸脱であると判定する、当該抽象過程を抽象する別の抽象過程があるためだとすれば、二つの軸の接続は後者の意味にも取れる。

しかし、当の天然知能は判断基準の変化を伴う一つの抽象過程というだけで、判断基準の変化の中に逸脱やホメオスタシスが見出されるのは、二つの軸の接続というモデルを通して天然知能を観察するためなのかもしれない。だとすれば、天然知能モデルは抽象過程の双対性を表したものだと捉えられる。二種類の軸を明示するのは冗長ではあるものの、外部と判断基準の変化の両方を顕にする点でわかりやすいと言える。

判断基準の変化が速いものもあれば遅いものもあり、それぞれのペースで天然知能は寿命を全うしている。文章や図でその生き様を十全に描くのは、そもそも無理なのかもしれないが、描こうとすること自体が一つの天然知能となる。天然知能に触れるには、自ら天然知能となる他ない。

2019-01-13

GODZILLA

アニメ映画の「GODZILLA」三部作を観た。

生命の完成に着地したビルサルドと、完成し得ない生命の輪廻に着地したエクシフ。抽象度の違いはあれど、生命をどこかに着地させることが、生命らしさを喪失することにつながってしまうというパラドックス。

明解で普遍的な唯一の答えがあり得るという信仰の中に、ゴジラやメカゴジラやギドラが巣食っている。答えは自然と人工の差異を生み出し、その差異がいつか怪獣として顕になる。

生きるとは、一つの怪獣を倒すために別の一つの怪獣に頼ることでも、怪獣を避け続けることでもなく、様々な怪獣と次々に出会うことだろうか。その答えへの着地ですら、一つの怪獣へと収斂するのかもしれない。
生きるのは難しい。

2019-01-09

ショッピングモールから考える

東浩紀・大山顕「ショッピングモールから考える」を読んだ。

苛酷な外部の中に生み出された、一つの世界観をもった内部。テーマパークやショッピングモールもまた、宗教や政治、文化と同じように、そのような内部の一つであり、同一の世界観に支配された純粋な内部は、自然に対する人工としてのユートピアとなる。

生み出されたばかりの内部は純粋だが、純粋さを維持するには努力を要する。それを担うのがバックヤードだ。メンテナンスを怠れば、熱力学第二法則に従って、内部は次第に複雑化していく。それを不純化と呼ぶのか、多様化と呼ぶのか。外部として括り出される砂漠や商店街もまた、かつて純粋だったものの名残りなのだろう。エントロピーの増大したかつての内部を外部としながら、新しい内部を生み出していく過程そのものが、とても生命的で面白いと思う。

一方で、純粋さを完璧に維持し続ける内部に対して、人間が完全に順応してしまえば、個体としての人間は思考する必要がなくなり、意識は不要になる。その代わり、人間を包含した内部そのものが、苛酷な外部環境に生きる生命になるだろうか。意識を失った人間がショッピングモールという生命の一部として機能する様を、現在の人間はディストピアとして憐れむかもしれないが、単細胞生物が多細胞生物に覚える憐れみを、多細胞生物には知る術がない。意識をもった人間のままであろうとするならば、揺るぎないユートピアは遠くから眺め、たまに訪れるくらいにして、儚いユートピアを次々に生成するのがよいのかもしれない。これは、そもそも現状がそれほど苛酷でない環境にいるからこその考え方だろうか。

最近月一で訪れるマニラには、都市の中に巨大なショッピングモールが点在している。マニラでショッピングモールに行く度に、ショッピングモールらしさの普遍性を感じるが、それも実は「京都らしさ」とそれほど変わらないものなのかもしれない。局所的な統一感が許容され、大域的な統一感が忌避されるというよりも、ある世界観によって統一されることで局所が定まるのであり、グローバリズムによって現れた新しい「局所」が、これまでの空間的な局所とは違うというだけなのだが、顔見知りでない人と避難所で夜を明かせないのと同じように、慣れ親しんでいない世界観がもたらす「局所」は倒錯として映り、抵抗感が生まれるのだろう。

現実でも虚構でもないシュールレアルとして生まれた内部は、いつかただの現実になる可能性を秘めている。ショッピングモールはどうなるだろうか。こういう「愚かな」ことを考えていたい。

2019-01-03

萩に猪


萩に猪で「亥」。
花札と十二支で共通するのは猪だけ。