2018-12-21

分身ロボットカフェ


大きく分けると二つのことについて考えている。

ひとつは意識を意識することについて。
OriHime-Dに意識が見出だせるとしたら、それは生身の人間が制御していることそのものよりも、「生身の人間が制御している」という情報が、応対が人間らしいことの理由として受け入れられることの方が影響が大きいと思う。ロボットに心が宿るか、義体化を進めたときにどこまで意識が残るか、といった問題は的外れで、刺激に対する反応が不確定な系のうち、自らと「同じ」ものとしてカテゴライズ可能なものを、意識は意識として意識するのではないか。自らもまた不確定な系である意識は、相対した系が意識であるか否かを投機的に決定するために理由を必要とする。逆に、理由が受け入れられて、投機的な決定を裏切るような情報が得られなければ、実際に意識を介しているかは関係がない。というよりも、「同じ」ような姿形をしていて、「同じ」ような入出力特性を備えた系だけにあると、漠然と信じられてきた意識なるものの概念の方が変化するのだろう。いずれThe Turkと逆のことが起こったりする中で、意識と人工知能の境界は現在信じられているほど確固たるものではなくなり、その境界を死守することに価値を見出す思想は、一種の差別思想とみなされるようになるのかもしれない。

もうひとつは働くことについて。
働けるようになることは社会参加として肯定的に受け止められ、時間、空間、身体などのあらゆる制限を克服して就労機会が確保されようとする。人間の労働が機械で代替できるようになり、大部分の人間が働く必要がなくなったとしても、このサイクルは止まらないのではないか。むしろ次々と労働の対象を変化させることで、意識を維持するための理由を供給し続ける。それはさながらゲームのようだが、十分多数のプレイヤーが参加したゲームは現実になる。意識の維持を是とすることに、自らが意識であること以外の根拠はないし、不要であると思うが、この労働化のゲームはいつまで続くだろうか。労働化のゲームが続かなくなった世界では、意識のメンテナンスは苛酷だろうと想像される。

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