2018-08-10

神の亡霊

小坂井敏晶「神の亡霊」を読んだ。

説明、理解、納得、解釈、といった、「意識特有の」という意味で意識的な抽象過程は、いずれも「理由」というものがあるという信念に支えられている。

その信念に支えられ、ネットワーク状につながる相関の網の中に、因果と呼ばれるツリー状やチェイン状の順序構造を埋め込もうとする確信犯的過程において、ツリーやチェインの先端が必要とされる。

先端は、定義によりそれに先立つものをもたないため、根拠なしに信仰される他なく、先端が先端として機能するにはその信仰過程を隠蔽する必要がある。こうして虚構が生まれる。

大いなる先端であった神が死んだ後にも、近代が自由意志という細分化された先端を創り出したように、順序構造の先端を担う神の亡霊としての主体は、人間が意識をもつ限り必要とされるのだろう。因果律の信念とともにある意識は、理由のない状況に耐えられない。虚構が暴かれたとしても、次の虚構を創出するだけだ。次に先端を担うのは、人工知能だろうか。

あるいは、人工知能の発達は、順序構造の埋め込みを回避する方向に向かうのかもしれない。それはつまり、意識を放棄するということに他ならない。ルネサンス以来、少なくとも500年に渡って精緻化されてきた意識という判断機構が別の判断機構に取って代わられるとき、近代という物語はようやく終焉を迎える。

そもそもネットワーク状の相関の網もまた、人体というセンサのフィルタリング特性がみせる構造に過ぎず、異なる物理的身体には異なる環世界が広がるだろう。情報の流れの中に構造を見出す抽象過程の判断基準次第で、世界はいかようにも捉えられるはずだ。

コミュニケーションが円滑になされるとき、共有された判断基準は忘却されており、そのまま固定化すれば壊死してしまう。一方で、判断基準の変化が激し過ぎれば、コミュニケーション不全によって瓦解する。その両極のあいだに留まろうとする機構を備えたものが、すなわち生命だろう。

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