An At a NOA 2016-12-08 “安全と安心”
An At a NOA 2017-05-12 “自由と集団”
An At a NOA 2017-06-13 “築地と豊洲”
あたりに書いた話の続き。
近代の専門分化というのは、安全であることをもって安心に読み替えることが暗に前提されている。そのおかげで短期間での効率的な発展が可能になった。
「安全だが安心でない」という言説は、これに対する反動であり、それが生じるのは、発展がある程度まで進行し、その速度が緩やかになったことで、効率化しなくてもよいだけの余裕が生まれたためだ。要するに、暇になったためである。
この先、外部抽象機関としての人工知能やロボットの活用が進み、人間はベーシックインカムによって生きていくような時代が来るとしたら、人間はますます暇になっていくだろう。むしろ暇になることは、人間が行っている抽象過程を技術によって外部として複製することの究極の目的だと言える。
暇になればなるほど、外部評価としての安全で代替せずに、内部評価としての安心をそれ自体として確保したいという欲求が生じるのは自然である。しかし、安心を外部に対して要求するという手段を取るのであれば、結局外部に移譲された安心という構図は変わっていない。安心を本当に得るためには、暇になった時間を使い、自らの責任で判断を引き受ける他ない。それは、近代の専門分化との決別である。
AIによる共産主義の上に人間が乗っかるような社会が実現したとき、人間への、というよりは、意識への究極の試練が訪れる。という究極の試練に対し挑み、意識を維持しようとするのであれば、暇を貪るように自らの理由付けに明け暮れるしかない。人によっては長く辛い人生になるかもしれないが、それはこの上なく人間らしい生き方のように思う。その試練から逃れた対極には、潔く意識を返上し、誰にも感じられることのない暇にあふれた永遠のソーマの休日へと還っていく選択肢も待っている。
An At a NOA 2016-07-05 “随想録1”
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