外部よりの視線がそそがれると、これに応答するためのとあるように、海岸という輪郭線に囲まれた内部において、
対策が内部的に組織されはじめる。
磯崎新「建築における「日本的なもの」」p.11
外部からの視線が想定されることで、「日本的なもの」が
かたちづくられてきた。
「趣味と構成」、「構築と空間」、「弥生と縄文」、
「自然と作為」のように、想定される外部からの視線が
変わるたびに「日本的なもの」も変化する中で、絶対的な
「日本的なもの」を求めればキッチュなものに陥る。
そして、世界がスーパーフラット化し群島状態に編成される
ようになってみると、それぞれの視線は「か」でしかなく、
それによって組み立てられる「日本的なもの」もまた、
一時的な枠組でしかないことがはっきりとしてくる。
視線の絶対性について、坂口安吾は虚構として一蹴し、
小林秀雄は「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」
と表現した。
磯崎新もまた、絶対的な視線の代わりに、「退行」や
「擬態」の反復によって浮かび上がる「かいわい」の
ような〈しま〉がもつ固有性に対して、「日本的なもの」
というよりは「日本的なこと」を見る。
1945年を10代で経験した磯崎新は、3つ年上の手塚治虫が
「火の鳥」を描いたように、廃墟から始まり廃墟へと戻る
循環として建築をイメージする。
そのイメージが生み出した「日本的なもの」への見方も
また一つの視線でしかないが、インターネットによって
絶対的な輪郭線を失ったにも関わらず、インターネットに
おいてすら絶対的な視線の幻影を求める現代において、
「もどくことの反復」という考え方には学ぶところが多い
ように思う。
反復が停止するか擬態でなく完全な複製になることに
よって、絶対的なものへの収束という壊死が始まる。
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