2017-09-05

現代社会の理論

見田宗介「現代社会の理論」を読んだ。

固定化した局所へと収束していくゲマインシャフトが、通信によって互いに接続されることによって抽象され、それぞれが発散しながら、ゲゼルシャフトとして再構成されることで、近代社会が形成された。加速する合理化の中で、局所の集積が大域という一つのものとして認識されるようになると、それはもはや、新種のゲマインシャフトとでも呼ぶべき、新しい一つの固定化した局所へと収束していくことになる。

特定の合理化へと加速度的に固定化していく近代社会の次にあると想定される集団形態の一つが、ある合理化から別の合理化へのつなぎ替え可能性を保ちつつ、固定化と発散を繰り返すような社会である。
「自然」であれ「文化」であれ、欲望を限定し固定化する力からの自由
見田宗介「現代社会の理論」p.28
によって古典的な資本主義の矛盾を乗り越えた、
自分で自分の無限定の成長と繁栄のために設定する無限空間―人間たちの現実的な必要を離陸する〈欲望の抽象化された形式〉、あるいは〈欲望のデカルト空間〉とは、このような〈消費のための消費〉、〈構造のテレオノミー的な転倒〉の、純化され、洗練され、完成された形式
同p.62
である〈情報化/消費化社会〉としての現代社会は、そのような社会であるように思う。

現状の現代社会が、物質とエネルギーの外部からの入力および外部への出力によって、自身の固定化と発散の過程を維持していることを問題として指摘し、情報化された消費のダイナミズムという抽象過程の固定化と発散そのものを本質と見据えた転回を図るという著者の主張には納得がいく。無相の情報を有相の情報として抽象する過程自体が限りなく生命的であり、中でも、つなぎ替え可能性を有する理由付けという抽象過程に人間らしさがあることを考えれば、それは自然なように思われる。

バタイユが蕩尽と呼んだ抽象の連鎖としての生命はつまり、不可逆過程によってエントロピーを外部へと排出する過程であり、
〈他の何ものの手段でもなく、それ自体として生の歓びであるもの〉
同p.136
と換言される〈消費〉の原義は、生命の本質がエントロピーにあることを述べたものだと言える。現状の現代社会が、未だ物質とエネルギーのやり取りに関して大規模に過ぎ、もっと収奪的でない方向へと進むことができるとは思うが、不可逆過程の前後でのエントロピー差が、入力エネルギーと出力エネルギーのエントロピー差として現れることを考えると、外部からの収奪がない生命はあり得ないと思われる。さらに、
資源は有限だが、情報は無限である
同p.152
という主張に含まれる、エントロピーは無限に増大できるという仮定が成立するようにみえるのは、
地球もまた一つの抽象過程=生命であり、太陽放射や潮汐によって入力されたエネルギーと宇宙へ放射されるエネルギーのエントロピー差によって地球上のエントロピー増大を防いでいる。
An At a NOA 2017-06-02 “パリ協定
という事実を忘れているだけである。
生存条件の維持にとって決定的なことは、エネルギーの枯渇ではなくあくまでもエントロピーを増加させないメカニズムがエネルギー(熱)を媒介として作動していることにある。
山本義隆「熱学思想の史的展開」p.335
という指摘を、常に念頭におく必要がある。

遥かかなたの太陽内部において、核融合によって生成されたエネルギーは、地球上の至るところにまんべんなく降り注いでいる。物質を含むエネルギーの移動を最小限に抑えつつ、地球外へとエントロピーを放出することで、固定化から逃れた奢侈な蕩尽を各々が全うできるようになったとき、近代社会の後継者としての、本当の現代社会が訪れるのだろう。その次には、地球にとっての外部たる宇宙空間の限界が訪れるだろうことも、歴史的に明らかだと思われるが、人類が滅びるのとどちらが先だろうか。

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