2017-08-30

社会思想の歴史

生松敬三「社会思想の歴史」を読んだ。

帯にあるように「簡潔で平明な叙述による初学者のための恰好の入門書」であることは確かだが、生松敬三のウェーバーにも通ずるような冷静な視点は、短い中にも鋭さがあり、なるほど名著であることが納得できる本である。

社会という問題が自覚され、人間の共同生活を社会と名づける習慣がはじまったのは、十八世紀のことであった。
生松敬三「社会思想の歴史」p.2
加速する合理化が局所の範囲を引き伸ばすに連れて、大域が局所と同一視されるようになるのが、社会という発想、近代という時代の始まりだろう。いかなる合理化も局所最適化の一つでしかないのに、近代ではそれが大域最適化に化けてしまう。本書で描かれる社会思想の歴史は、合理化とそれに対する抵抗のせめぎ合いであるが、その抵抗すら、理性によって語る限りは別の合理化でしかないから、合理化そのものへの抵抗と言うよりも、局所最適化としての合理化が不可避的に伴う、局所の大域化に対しての抵抗のように思われる。

カントはこのせめぎ合いを「非社交的社交性」と呼び、ヘーゲルは局所同士の矛盾が次々と止揚される運動である弁証法を大域最適化とみなし、「理性の狡知」を見出した。ヘーゲル学派が、その内容からして当然のように、
ヘーゲルの哲学体系そのものが、一面からすれば絶対精神すなわち神の自覚としての神学的形而上学にほかならず
同p.61
と指摘されるような局所の大域化に陥った後で左右に分裂することで、フォイエルバッハやマルクスといった、次の局所最適化の流れが始まり、大域化によって神に占められていた主役の座は人間へと明け渡される。

フォイエルバッハの言う「疎外」は、その自体抽象過程の集合であり、幾通りにも抽象し得る人間が、一面的な抽象過程のみとして捉えられている状態を表したものだろう。マルクスは、「類的存在」=「交通でつながれた局所」として人間を捉えることで大域化に抵抗した。商品が生みだされる呪物崇拝という自己疎外の過程は、局所の大域化がもたらす、ある種のフェティシズムと呼べるかもしれない。

テンニエスのゲマインシャフトからゲゼルシャフトへのやむことなき進行は、合理化に伴う局所の大域化が避けられないことへの言及であるが、これが諦めとしてよりも警告として捉えられることで、後のワイマール文化や「狂騒の20年代」につながったのだろう。

ウェーバーは禁欲的プロテスタンティズムに端を発した合理化が、「資本主義の精神」として大域化したことを鮮やかに示した。それは既に「鋼鉄のように堅い外枠」となり、未だに神として君臨している。ウェーバーは合理化がやむことなく進展する現実と、それが孕む局所の大域化の危険性を冷静に見つめ、神に自覚的であり、「知的廉直」であることを要求する。それによって、盲目的な合理化への反対による絶対的な唯一神の交代劇から、合理化自体によっては基礎づけられない相対的な神々の争いへと移行し、局所の大域化を免れた合理化が可能になる。マルクスの唯物史観も、それが唯一神をもたらす限りにおいては非難されるが、相対的な神々の一柱としては有用であり、ウェーバーはそこに別の視角を加えることで、マルクス理論に貢献したという見解も納得のいくものである。

フロイトによるエロスとタナトスの永遠の戦いというアンビヴァレントな感情もまた、大域化の傾向とその解体の現れである。エロスの敵であるタナトスを無害化するために、攻撃を自分自身へ向けることによってできた自我と上位自我の緊張状態の自覚としての良心や罪意識は、集団の瓦解を防ぐ機構として有用だったかもしれないが、合理化が加速した近代においては、むしろ局所の大域化を過度にもたらしてしまっているように思われる。

最後に現代(と言っても50年前だが)の社会思想として、マルクーゼが紹介される。マルクーゼは特定の局所へ固定化する様を一次元的人間として非難し、これを非合理とする「大いなる拒否」によって脱却を目指す。確かに、合理化が局所の大域化を伴う限り、過度に進行した合理は非合理と見分けがつかないことになると思うが、その拒否の仕方は、暴力のような秩序の破壊ではなく、別の秩序の形成によるのがよいように思われる。ともかく、そうして「必然の国」から質的に変化した「自由の国」において、「労働」と「遊び」が一致するという視点は興味深い。
AIによる共産主義の上に人間が乗っかるような社会が実現したとき、人間への、というよりは、意識への究極の試練が訪れる。
An At a NOA 2016-07-05 “随想録1
何もしなくてよいというのは、如何にして行動をし続けるかを目指して形成されてきた判断機構=意識に対する、究極の試練となるように思われる。
An At a NOA 2016-06-15 “労働価値のコンセンサス
「自由の国」において、意識をもつ「人間」が存続するのはなんと難しいことだろうか。そこは、現代以上に神の死んだ「宗教上の平日」であり、ウェーバーが指摘するように、「知的廉直」であることによって、無目的的な合理化による「精神のない専門人」「心情のない享楽人」への堕落を避けない限り、意識は保てないように思われる。
最高段階にまで到達したとうぬぼれる「精神のない専門人」、「心情のない享楽人」の出現―これはそのまま現代への痛烈な批判の言葉となっているといってよいであろう。
同p.133

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