よいテーマだ。
頭と身体に分割され、頭ばかりが大きくなってバランスを失って
いるものは、本当のところ何なのか。
最上 頭だけでもダメだし、身体だけでもダメというか、おそらくそれは語ることで解るunderstandものではなく、やはり
その両方が区別のない状態に自分を持っていくわけですね。
押井守、最上和子「身体のリアル」p.86
身体を動かすことで分かるgetものである部分が大きい気がするの
だけど、「ゴドーを待ちながら」でヴラジーミルとエストラゴンの
二人が必要なように、頭と身体のどちらかだけでよいということは
ないのだろう。
押井守と最上和子による対談の形式をとることで、各人が頭と身体の
混合物でありつつ、それぞれの思考や体験もまた混合されることで
出来上がっているのも、本書のよいところだと思う。
理由付けすることや語ることによって解ること、理解することが
人間を特徴付けるとすれば、語らないことは語るだけと同じくらい、
身体のリアリティを毀損するはずだ。
押井 人間ってだから理解できないものをいかに理解するかだから、対談の中でも両者から繰り返し語る努力をする話が出てくるし、
ということが人間の精神活動のすべてだと言ってもいいんでさ。
同p.98
こうしてこの本が出版されている。
一方で、固定化する判断基準の中で語り過ぎて、頭ばかり大きくなった
近代以降の人間は、挙句の果てに大きな物語が失われることで、一気に
脆さを露呈しつつある。
そういう時代にあって生きるには、押井守が空手をやり、最上和子が
舞踏をやるように、物理的身体の抽象にも取り組む必要があるのかなと
いうことを感じる。
示すことと語ること、感じることと考えることを、いかにして分離して
いない一つの抽象過程として生きるか。
最上 答えを出すというよりは納得していく。すべてのそれは結局は個々人でやるしかないのだと思うが、こうして他の人が
起こることを納得していくという。
押井 その過程自体を生きるという。
同p.100
どうやって生きようとしているのかを見聞きするのはすごく面白い。
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