グーグル、ビッグデータ、人工知能といった時事的な
議題が並ぶが、ありがちな表面的な話ではなく、
各議題の本質を捉えるような議論が展開されており、
とても興味深く読めた。
まずはマクルーハンのメディア論の再整理がなされ、
現在の情報社会がネットワークメディアを媒体として
いることに言及した上で、各論に入る。
声、手書き文字、活字、マスメディアと変化してきた
中で、声や手書き文字から活字やマスメディアへの
メディア生態系の変化は、コミュニケーションの
非属人化として捉えられるだろうか。
ネットワークメディアはマスメディアのさらに先にあり、
開発者のティム・バーナーズ=リーも言うように、
WWWは本来的に非属人的な、匿名性を前提にした
コミュニケーションの場である。
だからこそ、著者が指摘するように、ネットワーク上に
実現する社会は、マクルーハンが言うような声や手書き文字
といった属人性に基づく地球村ではなく、ルーマンが言う
ような世界社会ということになるのだろう。
この、属人/非属人という区別はつまり、抽象した者と
抽象された物の結びつきの有無だと言えるだろうか。
ハイデガーの予言した、技術が〈自立=自律〉した世界に
おいて、理由は邪魔以外の何者でもない。
自動化された技術の流れにおいて、理由のせき止めによって
できた滞留のことが、人間の意志であったことになるだろうか。
知が技術化する中で、Googleやfacebookが抱えるファクト
チェックの問題が取り沙汰されるようになってきたが、
それを権威的に解決することは可能なのだろうか。
権威として挿入される理由は、やはり知の〈自立=自律〉化の
妨げにしかならないように思われる。
ただ、第二章の終わりで著者が指摘するように、〈自立=自律〉
化に抵抗することこそが、哲学に課せられた課題だというのは
確かだろう。
ビッグデータは本質的に物理的身体に入力されるデータと
同じ性質を有する。
規模における無際限性、速度における動的な運動性、
多様性における無差別性と無目的性を指摘し、
ビッグデータとは“ゴミの山”である。と述べているのは適切な指摘だと思う。
大黒岳彦「情報社会の〈哲学〉」p.90
眼は、何かを見ようとして光学データを取得しているのではない。
ビッグデータの章で、「情報」という単語の意味について指摘
している内容にも同意できるが、「データ」という単語に対して
やはり日本語を当てたいなという気はする。
An At a NOA 2017-01-24 “dataとinformation”
SNSを分析する第三章において、コミュニケーションが
システムを形成する様を描きながら、ルーマンの社会
システム論とマクルーハンのメディア論が接続される議論は
本書の核をなす。
コミュニケーションが世界=社会を生み出すのであって、という状況において、「わたし」という主体もまた、
世界の中にコミュニケーションが生じるわけではない。
同p.152
ビッグデータのような“ゴミの山”から立ち上がる。
これまでは物理的身体があることで維持されてきたアプリオリが、
ネットワークメディアの社会的アプリオリに置き換わることで、
意識の捉え方も変わっていくだろうか。
それは、第四章のロボットの話の中で、
「人間」もまた社会〈システム〉の水準からは、〈コミュニケーション〉をとまとめられる議論にも通ずる。
連鎖的に紡ぎ出すことで社会を再生産する、したがってAIやロボットと
機能的に等価なネットワークのノードとして位置づけ直されざるを得ない。
同p.225
同章では労働の自動化についても議論が展開されているが、
コミュニケーションに見出される“主体性”までを譲渡する
というのは、労働の自動化に伴って心理的身体を維持する
ことが困難になるだろうという話と合致する。
個人的には、理由を差し挟むことがなくなることで、
心理的身体が不要になるために消え去るのだと思うが、
むしろそれは、ゴーストダビングにおけるゴーストの消失の
ように、“主体性”を見出す側の変化として現れるのかもしれない。
終章ではシステムと関連して倫理と道徳の本質に迫るが、
「倫理とは人間にとっての正義のことである」という倫理観を、
抽象する者全般を含むシステムに如何に拡げるかというのは
本当に難しい。
フロリディによる、エントロピー増大への抵抗を善とする
倫理観は面白いなと思う。
その倫理体系において、忘れられる権利は尊厳死と同じ問題を
提起するだろう。
“演算”不能なパラドキシカルな例外的事例に直面することで、というルーマンの「偶発性定式」による正義観や、デリダの
システムが現行の「構造」の限界に“気づき”その更新を余儀なく
させられることが、システム論の枠組みにおける「正義」の
内実をなす。
同p.300
「脱構築の可能性としての正義」は、人間の倫理も包括する。
理由の不在としての自然は矛盾をはらみようがないが、
そこに理由が挿入されることでパラドキシカルな状況が生じ、
人間にとっての「正義」の輪郭が現れる。
correctnessに対するrightnessの在り方である。
パラドキシカルな状況に対して、物理的身体の更新という進化で
対応するのか、心理的身体の更新という設計で対応するのかが、
動物と人間を分けるという見方もできるかもしれないが、
それは人間至上主義的であろう。
しかし、「パラドキシカル」という観点が、既に人間的なものを
想定してしまっているようにも感じる。
コミュニケーションをベースに考えたとき、道徳や倫理は
コミュニケーションに前提された束縛条件だと言えるだろうか。
あるいは、コミュニケーションの種類としてのハードウェアと
ソフトウェアの速度差が道徳や倫理を生み出すと言えるだろうか。
この手の議論をするときには、自分が人間であることが
ものすごく邪魔になる。
マクルーハンがマスメディアという盲点に気づかなかったように、
人間である限り何らかの盲点は存在しているのではないかという
疑いは晴れないだろう。
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