森毅や竹内外史のエッセイが載っていて不思議だった
のだが、2007年2月臨時増刊号を再刊行したものらしい。
遠山啓が「現代数学入門」で書いていたように、数学は
構造の科学であり、抽象そのものの在り方を扱う。
幾何学における平行線公準の真偽が、ユークリッド幾何学と
非ユークリッド幾何学の違いを生み出し、ニュートン的な
世界観と相対論的な世界観に対応していたように、
選択公理や連続体仮説、排中律の真偽もまた、異なる
抽象の仕方に対応するというだけであるとも言える。
森毅のエッセイで、
外史の「名著」だが、直観主義(命名としては構成主義のと書いてあったのは、このような公理の設定と世界観の
ほうがよいと思う)の論理を心の論理、ノイマン環の
量子論理を物の論理、古典的なブール論理を神の論理と
しているのに感心した。
森毅「ゲーデル、つかず離れず」
現代思想2017年6月臨時増刊「ゲーデル」p.57
対応を表している。
これらの真偽に対して中立を保ち、真である場合と偽である
場合について思考することもできるが、意識や無意識を実装
した人間として、自らが身を置く抽象過程がそれらの公理の
真偽いずれの場合に相当するのかを決定することにこだわる
という姿勢もわからなくもない。
ゲーデルが連続体仮説の決定不能性に満足しなかったのは、
そこにこだわったためだと思われる。
公理の真性は予め決まっているのではなく、決めるべきものである。
それを決めるのは、人間にとっては物理的身体のセンサ特性かも
しれないし、心理的身体の特性かもしれない。
人間だけに話を限るのであれば、物理的身体のセンサ特性に対して
真である公理は、単に真だと形容してもよいのかもしれない。
しかし、真偽は抽象過程を経ることで決まるものであり、もし
絶対的に真にみえるものがあるとしたら、それは同じ抽象過程を
経た情報を、その抽象過程を超えた後だけ眺めるためである。
無相の情報それ自体には、真理という概念すら存在しないはずだ。
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