2017-09-12

共同体の基礎理論

大塚久雄「共同体の基礎理論」を読んだ。

序論において、
われわれの用いる諸概念や理論はそもそも限られた史実を基礎として構想されたものであり、つねに何らかの程度で仮説(Hypothesis)に過ぎず、(中略)再構成されなければならない。
およそ、どのようなものであれ、歴史の理論は抽象という手段によって史実という母胎から生まれて来たものだからであり、母胎である史実(したがって現実)は理論よりもつねにはるかに内容豊富なものだからである。
大塚久雄「共同体の基礎理論」p.2
とあるのは、抽象過程の特徴をよく表現していると思う。その比喩として、現実の地形と地図の関係を持ち出しているのもわかりやすい。

「共同体」という語を、
「原始共同体」ursprüngliche Gemeinschaftとの歴史的連関をもそのうちに含めながら、いっそう広く、その後封建社会の終末にいたるまでの広汎な期間にわたってつぎつぎに継起する生産諸様式―もちろん階級分裂をそのうちにはらむ―の土台あるいは骨組を形成した「共同組織」Gemeinwesen全般を問題とするのである。
同p.5
というかたちで広く捉えた上で、「生産諸様式の土台あるいは骨組」という構造が抽象されながら共同体が崩壊していく過程を整理している。
「土地」Grundeigentumこそが、他ならぬ「共同体」がまさにそれによって成立するところの物質的基礎となる
同p.12
とあるように、それは「土地」=「「占取」された「大地」」そのものや人間と土地の関係が、部分へと分解されていく過程とも言える。それはおそらく、「生命に部分はない」で取り上げられた物理的身体の部分化の話や、物理的身体からの心理的身体の独立という話とも関係するだろう。

特定の前提を固定したまま抽象することは精緻化をもたらし、労働による「土地」からの私的占取が生み出す「分業」や近代における専門分化につながるのは自然であるが、分業や専門分化によって個人や専門家が析出すると、共同体の基準と析出した個々の基準の間に矛盾が生まれる。この「固有の二元性」le dualisme inhérentという矛盾が露呈することによって集団を支える構造が変化していく様子を、アジア的形態→古典古代的形態→ゲルマン的形態として整理するのは、やや西洋中心主義的ではあるかもしれないが明快であり、よい抽象だと思う。

異なる判断基準間の軋轢が構造の変化の駆動力になるとすれば、判断基準が一つしかないところでは構造は固定化したまま維持され、その判断基準や構造が真理のように映る。そこでは判断基準の共有によって規定される局所が大域として認識されるという局所の大域化が済んでおり、もはや判断基準や構造は意識されることなく埋め込まれている。「固有の二元性」が必ず発生するのであれば、この状態から抜け出し得るが、そうでない場合には、通信技術の変化によって、時空間的な通信範囲や通信の種類が変化しない限り続くだろう。

ゲマインシャフトは、構造が固定化して埋め込まれた状態であり、ゲゼルシャフトは、通信の変化に付随して一時的に局所と大域が分離することで構造が顕在化した、ゲマインシャフトからゲマインシャフトへの移行の過渡的段階のようにも思われる。
加速する合理化の中で、局所の集積が大域という一つのものとして認識されるようになると、それはもはや、新種のゲマインシャフトとでも呼ぶべき、新しい一つの固定化した局所へと収束していくことになる。
An At a NOA 2017-09-05 “現代社会の理論
いかなる局所も、通信の仕様によっては大域と同一視され得る。通信技術は局所=大域化が可能な最大領域を決めるが、局所がその最大領域に達していると認識されている状態がゲマインシャフト的であり、そうでない状態がゲゼルシャフト的である。

「ハーモニー」のスイッチが押された後の世界や「都市と星」のダイアスパーのような、エントロピーが増大しきったディストピアというゲマインシャフトに陥らないための発散機構として、心理的身体は機能し続けることができるだろうか。もし心理的身体が機能しなくなったとしても、「固有の二元性」によって新たな発散機構は析出するだろうか。

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