近世とは、地球的規模の流動が起こりながらも、世界はまだ近代的な局所の大域化による固定化への収斂が始まる以前、
均質化していなかった時代のことである。
田中優子「江戸の想像力」p.242
壊死と瓦解のあわいで秩序の更新が維持されていた近世。
その完成することのない生命的な過程を支えていたのは、
本物と偽物、善なるものと悪なるもの、知と愚、といった
あらゆるものを相対化する方法としての「連」、「列挙」、
「俳諧化」であり、笑い、遊び、擬にも通ずるものである。
俳諧化とは、このような相対化のくり返し運動の側面をそれらは投機的短絡の最たるものであり、理由付け機構
もちつつ、相手を徹底的にほぐし、その顎を解き、あるいは
滑稽化することによって批評する方法なのである。
つまりは、笑うことによって動き続ける方法なのだ。
同p.71
としての意識を意識たらしめるものだと思われる。
日常の言葉には還元できず、説明の言葉にも乗ることを得ず、平賀源内と上田秋成に代表される両極を軸にした動的な
しかも不可解を不可解のままでおくことはできない人間の
性癖があるとすれば、シンボリックな言葉をもって世界
(人間をも含む)を物語る、という行動は、人間の普遍的な
問題として考える必要がある。
p.174
秩序は、マスメディアのようなクライアントサーバ型の
通信方式が発達し、大きな物語を共有できるようになる
につれて、より静的な秩序である近代へと移行する。
近代にはつながらなかったものも近世にはあふれていた
はずであり、それを捉えるには、近代的なチェイン構造
ではなく、ツリー構造やネットワーク構造として歴史を
想定する必要があるのだろう。
物理的なレベルまでP2P型であるような通信方式が大域的に
展開されたとき、近代的な個人に代わって、空っぽの器で
あった源内のような近世的な個人が現れ、Post-truthの時代を
担うことになるだろうか。
近代的なユートピアは必然的にディストピアへと収斂
するが、果たして近世的な個人は壊死も瓦解もしない
近世的なユートピアを想像/創造できるだろうか。
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