2017-09-16

プロトコル

アレクサンダー・R・ギャロウェイ「プロトコル」を読んだ。

本書では、分散型アーキテクチャを有する管理=制御型社会における通信の基盤をプロトコルと呼び、これまでの中心化した君主=主権型社会や脱中心化した規律=訓練型社会との比較から、デジタルコンピュータの普及とともに管理=制御型社会が広範化していく可能性を検討する。通信が成立するところには必ず通信の基盤となる同一性の基準が存在するため、プロトコルに相当するもの自体は生命そのものと表裏一体であり、デジタルコンピュータに限った話ではない。しかし、単に通信を可能にするための基準だけでなく、どのような通信を許可するかといった基準を含むかたちで、通信の基盤は暗黙のうちに肥大化してしまう。分散型アーキテクチャに特徴的で、デジタルコンピュータが体現するのは、肥大化することを抑制し、通信可能性だけに絞った通信の基盤だと思われる。

中心化→脱中心化→分散という集団形態の変遷は、通信の基盤を絞り込んでいく過程であり、それは構造主義的な見方を突き詰めることで、通信可能性までたどり着いた。
プロトコルの論理にもとづくシステムの限界と、そのシステムのうちにある可能性の限界とはおなじことである。
アレクサンダー・R・ギャロウェイ「プロトコル」p.107
プロトコルとは、可能性と同義である。
同p.278
という指摘は的を射ているし、
プロトコルが意味に影響を及ぼすことはない。
同p.107
というのも、プロトコルは通信可能性のみを担保し、それ以上の解釈を付与しないという意味では妥当である。(ただし、通信が可能であること自体に何らかの同一性の基準という正義が埋め込まれるという意味では、あらゆるプロトコルはどれだけ削ぎ落とされようとも、不可避的に解釈とともにあり続けるはずだ)サイバーフェミニズムは通信可能性を女性的なもの、肥大化した部分を男性的なものに関連付けるが、これは母権制から父権制への移行が通信の基盤の肥大化によって生じるという見方だと言え、分散型アーキテクチャは母権制の再来とみなせるのかもしれない。

通信可能性を担保する同一性の基準は正誤の基準であり、そこに善悪の基準が付与されることが肥大化の要因だと言えるだろうか。
An At a NOA 2017-09-15 “過誤
分散型には秩序や構造がないわけではなく、中心化や脱中心化では通信の基盤の肥大化によって現働的actualな意味での構造が固定化しているのに対し、分散型では潜在的virtualな意味で構造が存在する。「誤り」は単に通信不能をもたらすが、「過ち」が通信不可として弾かれることで、集団は中心をもつようになり、潜在的virtualにだけでなく現働的actualに構造が固定化する。現働的actualに構造が固定化した集団では、通信基盤に埋め込まれた善悪の基準が中心からの監視として現れ、集団からの逸脱が予防されるが、潜在的virtualに構造が固定化した集団では、相互監視によって逸脱が予防される。
構造は、微分化différentiéeされていることで、潜在的virtualでありつつ実在的realでもある一方で、様々に受肉可能であるという意味で多様性をもつ、すなわち未分化indifférenciéeであるため、受肉の仕方によって様々に現働的actualなものになることができる。
An At a NOA 2017-08-18 “何を構造主義として認めるか
という構造主義の理想は、デジタルコンピュータの時代に可能になるのかもしれないが、依然として善悪の基準を引きずることに慣れており、まだまだ現働的actualな構造が未分化な状態には耐えられないように思われる。

ただ、SNSが既存のマスメディアに影響を与えるようになり、意思決定プロセスに変化が生じていることを思えば、リアルな世界でも少しずつ通信基盤からいろいろなものが削ぎ落とされつつあるとも言える。その次には新たな善悪の基準が敷かれるだけなのかもしれないが、通信可能性だけが残るまで削ぎ落とされたとき、潜在的virtualな構造だけを基盤とした現実世界が、文字通りのVirtual Realityとしてのユートピアになるのかもしれない。その世界では、もはや固定化された順序構造が共有されることはなく、時間は充足理由律とともに薄められているのだろう。

言葉は通じるのに話の通じない相手があふれる世界では、如何にして話をしたらよいだろうか。

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