2017-11-06

多層的な類人猿

建築雑誌11月号に載っている山極壽一へのインタビュー、「類人猿とヒトから考える都市」を読んだ。

山極壽一は、家族と共同体という編成原理の異なる組織を両立できたことに、ゴリラやチンパンジーと比べたときのヒトの特殊性を見出している。「ゲンロン5」で平田オリザが演劇の起源として指摘していた話は、これを踏まえたものだろう。

多層的な類人猿として特徴付けられたヒトは、しかし、単層的な類人猿へと向かいつつあり、ポピュリズム、新自由主義、メシア信仰という「民主主義の内なる敵」は、単層化の行き着く先である。新自由主義的発想に基づいて建設される「タワマン」や「ニュータウン」が、特定の年齢層や社会階層だけを含むコミュニティの形成を促すという特集の主旨説明文の指摘は、「すばらしい新世界」で描かれたアルファだけを集めたキプロス島の実験を彷彿とさせる。

松岡正剛が「かわるがわるくこと」を勧め、東浩紀が「観光客の哲学」を展開し、田中純が「波打ち際」と表現したように、ヒトが多層的な類人猿であるために、山極壽一は「二重生活」を提唱する。それらはいずれも、複数の価値観があり得ることを許容するだけでなく、複数の価値観が重なり合うことをよしとすることによって、特定の判断基準に固定化することを免れる。複数の価値観を「join」ではなく「混ぜる」ことによって多様性を捉えるのは、とても日本的だと思う。
もしかすると、日本人はdiversityではなくvariationとして「多様性」を捉えた方がすんなり受け入れられるのかもしれない。
An At a NOA 2017-09-20 “variationとdiversity

現状では技術的な問題で人間が移動する必要があるが、触覚や嗅覚などに代表される通信上の制限がなくなれば、情報と人間のどちらが移動しても本質的には同じである。エネルギー的には情報が移動できるようにした方が省エネになるだろう。いずれにせよ、異なる集団に実際に属することが、ヒトらしく生きることにつながるということだ。
ひとつ言えることは、氷河と河川のいずれか一方のみよりは、両方にいる機会がある方が面白いのではないかということだ。
An At a NOA 2017-08-15 “氷河

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