全知全能の存在としての神には、宗教の思考様式が
最も表れており、それはある種の思考停止を伴う。
充足理由律の観点から言えば、あらゆることについての
理由として神を設定できるということであり、それは
不可避的に固定化をもたらすはずだ。
宗教への対比として、科学がホメオスタシス的な機能を
果たしうるということを述べている。
ホメオスタシスというものは、個体におけるものでも執筆当時の東西が対立した世界を評して、
種族におけるものでも、その基盤そのものを早かれ
おそかれ考えなおさねばならなくなるはたらきである。
ノーバート・ウィーナー「科学と神」p.89
致命的なのは、それがどんな形の石頭だかということではというような状況では、ホメオスタシスは成立しないと
なく、それが石頭であるということ自体である。
同p.90
しており、石頭では科学もホメオスタシス的な機能を
果たせないということに触れているが、前後の章も考慮すると、
ウィーナーは機械という存在を石頭をもった判断機構として
描いているように読める。
原題は「GOD AND GOLEM, INC.」であり、
機械は、(中略)ゴーレムの近代的化身である。と述べていることを踏まえると、いずれもホメオスタシス的でない
同p.101
固定化への警鐘としてGODとGOLEMを表題に挙げたのだろうから、
それを「科学と神」としてしまうのは不適切だと思われる。
機械の自己複製について、画像的pictorialな像と機能的operativeな
像の対比が出てくるが、後者として複製されるのはシミュレータ
だと言える(必ずしも前者がエミュレータだとは限らない)。
ある判断基準を設定すれば、ウィーナーが述べるような方法で
「完全な」シミュレータを複製することは可能だが、基準が変われば
その完全性は失われる。
結局、機械がホメオスタシス的なものになるためには、判断基準
としての基盤が移り変わることを前提にした複製をせざるを得ない
とも思われ、哲学者や生化学者の反発があるのもよくわかる。
しかし、エミュレータとして複製するしかないとしてしまうのは、
一種の怠惰なのではないかとも思う。
ウィーナーとしてはその変動的な部分は「機械ー人間混成系」を
つくることで補うのがよいとしているようだが、果たしてそうでない
選択肢はあり得るだろうか。
逆ベイズ理論に基づく判断機構が実装できて、投機的短絡をすることが
できれば、機械はホメオスタシス的になれるのかもしれない。
それともやはり、
そんな機構は自己正当化を続けるバグの塊にみえてしまうだろうか。
An At a NOA 2017-01-09 “勘”
a hen is only an egg's way of making another egg.鶏は人間か、機械か。
Samuel Butler "Life and Habit"p.134
「鶏とは、卵が卵を産むための手段にすぎない」
サミュエル・バトラー「生活と習慣」
伊藤計劃×円城塔「屍者の帝国」p.294
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