2017-08-10

マッハとニーチェ

木田元「マッハとニーチェ」を読んだ。

村上陽一郎「熱学とロマン主義の時代」によれば、啓蒙主義こそが自然科学を生み出した。それは理性によって世界を部分に切り刻んでいくものであったが、その反発として十八世紀末から十九世紀初頭に生まれたロマン主義が、
人間の小さな頭脳に与えられた理性ではとても摑み切れない不可思議として受け入れる、という態度
村上陽一郎「熱学とロマン主義の時代」
「近代熱学論集」p.xii
とともに、熱学の発展をもたらしたことは、たしかに「ホーリスティックな存在」としての人間を、可能な限り部分化することなく捉えるのに大いに貢献したことだろう。

固定化からの脱出としての発散という点では、マッハとニーチェの二人も、このロマン主義の後継にあたるはずであり、理解することが不可避的に含んでしまう部分化を受け止めつつ、特定の部分化に固定化することから何とか逃れようとしたのだと思われる。

マッハは、自我とは「比較的強固に連関しあっている要素群」にすぎず、「暫定的概観のための実用的統一体」とみなすべきだと主張している。
木田元「マッハとニーチェ」p.290
というマッハの自我観には共感できる。感覚によって世界が生成されると言うときに、それを受容する何かとして自我を想定するのは誤りであり、自我もまた、抽象によって生成されるものである。
絶え間ない流れに、理由という杭が立てられることによってできたよどみ。そのよどみのことを、心理的身体と呼んでいるのだろうか。
An At a NOA 2017-04-07 “よどみ
「今、ここ、私」がすべて生成されるものなのだとしたら、要素還元主義によって特定の判断基準を基にパーツを用意するのは、時間と空間と自我を固定化することに他ならない。

ある判断基準に従ってゲシュタルト崩壊して得られたパーツからは、その判断基準に沿うような全体は再構成できても、他にあり得た判断基準は消え去ってしまうように思う。

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