2017-10-14

日本の思想

丸山眞男「日本の思想」を読んだ。

日本の考え方の傾向として、
現実からの抽象化作用よりも、抽象化された結果が重視される。
丸山眞男「日本の思想」p.65
すなわち、「する」ことよりも「である」ことが重視される
という部分が一貫して述べられているように思う。
ことがらがことばになる過程でなく、ことばになったことがら
だけが重視されるのは、オルダス・ハクスリー「」のパラとは
対極にある世界である。
世界認識を合理的に整序せずに「道」を多元的に併存
させる思想的「伝統」
同p.42
においては、「する」ことをせずに、「である」ことをただ
受け入れることで、日本の思想的雑居性、神道の「無限抱擁」
性が生まれ、個に対しては無責任なままに「である」が 集積
された結果として、全体には無限の連帯責任が課せられる。
決断主体(責任の帰属)を明確化することを避け、
「もちつもたれつ」の曖昧な行為連関(神輿担ぎに
象徴される!)を好む行動様式
同p.42
無限責任のきびしい倫理は、このメカニズムにおいては
巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包している。
同p.42 
理論信仰も実感信仰も、「する」を放置した「である」への
信仰という点では同じであり、「である」の塊である「多頭
一身の怪物」、「タコツボ文化」、「むら」を生み出す。
タブーによって秩序を維持しようとする「である」社会には、
「権利の上にねむる者」がいて、「理想状態の神聖化」がある。
判断基準が更新する過程をないがしろにし、判断基準を所与の
ものとした上で「正しい」ことを求めるだけの、「とにかく
早くすっきりしたい」という思考停止。
An At a NOA 2017-10-13 “せっかち
は、こういった「である」社会の端的な現れなのだろう。

抽象化によって形成されるイメージは、本来人間と環境の間の
潤滑油となるところが、抽象化作用である「する」が省略され、
結果が一人歩きしてしまえば、イメージは「タコツボ」や
「むら」を隔てる「である」の厚い壁となり、現実とは似ても
似つかない「化けもの」が跋扈することになる。
各「タコツボ」や「むら」の中では、take for grantedの領域が
増えることで、利点となることもあったかもしれないが、
外は「化けもの」ばかりであれば、やはり全体としては通信不全
による不利益の方が多いのだと思われる。

思想的雑居性自体は必ずしも悪いものではなく、
仮説を作って経験によるトライアル・アンド・エラーの
過程を通じて、この仮説を検証して行くという不断の
プロセス
同p.105
であり、「自己の責任における賭け」である「する」ことによって
雑居した思想の更新が続いていけば、複数の抽象過程の重ね合わせに
つながることで、著者の提案する「多元的なイメージを合成する思考法」
にもつながるように思う。

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