東浩紀の著作は高校時代に「動物化するポストモダン」を
読んで以来だが、その他の著作も含めて本書との関係が
整理されており、とても読みやすかった。
ところどころ、議論としては飛躍していたり穴があったり
するのを承知で、多少荒削りなままでも出してくれたことは、
グローバリズムとナショナリズムがないまぜに吹き荒れる
2017年において、これまで「まじめ」な文脈では十分に
語られて来なかった「観光」を主題として「観光客の哲学」を
語るのによくマッチしていると思う。
おそらく、すべてを「まじめ」に語れると仮定した途端に、
グローバリズムかナショナリズムのいずれかに回収され、
「観光客」的な在り方とは乖離してしまうのだろう。
人間誰しも、自分の育った環境において形成された価値観をもつ。
それは心理的身体の判断基準となり、記憶=過去として自身の
アイデンティティをなしている。
心理的身体の抽象過程としての理由付けには、投機的短絡に
よってその判断基準をずらせるという特徴があり、物理的身体の
抽象過程である意味付けと一線を画すが、判断基準の変化速度は
年齢とともに緩やかになっていく。
むしろ、判断基準の変化速度が遅くなることが、精神的に老いる
ということだ。
観光客として観光地に赴いたとき、人か物かに関わらず、様々な
入力データに出会い、新しいコミュニケーションが生じることで、
判断基準が変化する機会が訪れる。
しかし、判断基準の変化速度の遅さのために、観光という比較的
短期間のコミュニケーションでは、その土地の人間の判断基準との
同化には至らず、判断基準の差が生じる。
その差が観光客のまなざしであり、それを受け止めるというのは、
その土地の人間にとっては他にもあり得る正義を前提とした正義を
もつことにつながる。
観光客側にとっても事情は同じだ。
本来は判断基準がずらせるはずの理由付けは、真理を仮定することで
理由の連鎖を固定してしまい、その反動としてPost-truthが生まれる。
でもグローバリズムというTruthへの反動としてのPost-truthの収容先も、
結局はナショナリズムという別のTruthにしかならないのであれば、
何も変わらない。
シュミットの友敵理論における「友」と「敵」の境界は、それによって
秩序ができるという点では、抽象過程としての理由付けの一面を捉えて
いるが、仮にそれが組み換え不可能なのだとしたら理由の連鎖は理屈
として固定化してしまい、シュミットが危惧する世界国家の形成とは
また違ったかたちでの歴史の終焉へと収束する。
グローバリズムがエントロピー最大としてのディストピアだとすれば、
ナショナリズムはエントロピー生成速度→0としてのディストピアであり、
いずれも発散なき固定化の状態である。
それを打開するための望みとして、観光客的なものを考えるという
東の提案には納得できるし、同意もできる。
形成された秩序が生命的なのではなく、秩序が形成される様が生命的
なのであり、ひいては人間的なのである。
観光客という「郵便的マルチチュード」が引き起こす「誤配」によって、
あるいはその「誤配」を織り込むことで、判断基準の更新を見据えた
理由付けができる人間的な人間への道が開ける。
思うに、子どもというのは、抽象機関としての身体が、物理的にも
心理的にも発散している。
物理的身体の発散というのは、目を離した隙にどこかに行って
しまうということではなく、雲をパンとして見るといったように、
五感や体性感覚の特徴抽出が完了していない様である。
心理的身体の発散は、なぜなぜ期として発現する。
この発散は、固定化の進んだ大人に対して、判断基準の大いなる
差を生み出し、子どもは究極の観光客として立ちはだかる。
そして、偶然にも現れた究極の観光客を、家族だからという理由で、
あるいは理由抜きに、親は受け入れる。
両者の間のコミュニケーションは子育てという形態をとり、送り手の
判断基準を受け手に引き継ぐ行為を教育と呼ぶなら、子育ては親から
子への教育であると同時に、子から親への教育でもあり得る。
そこに、判断基準の更新の可能性があり、人間的な人間として
生きる可能性がある。
子として死ぬだけでなく、親としても生きろ。東も言うように、それはもちろん象徴的、文化的であってもよい。
東浩紀「ゲンロン0」p.300
このメッセージが、ものすごく大事なものとして響くのである。
意味付けによる物理的身体は生殖や発生の過程でエラーを導入し、と述べたヒューマンエラーは、偶然の子どもや観光客によって
理由付けによる器官なき身体は理由の連鎖の過程でエラーを導入する。
(中略)
ヒューマンエラーという言葉は、「器官なき身体に導入される振れ幅」
という本来の意味を取り戻すべきなのかもしれない。
An At a NOA 2016-11-12 “理由の連鎖”
もたらされるだろうか。
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