数学に「構造」という言葉が持ち込まれたのはブルバキの
「数学の建築術」によるらしい。
数学は自然科学とか社会科学とかいう分け方ではなくてと書かれているように、「数学ができる」というのは、
「構造の科学」といったほうが性格をよく表している。
遠山啓「現代数学入門」p.108
物事の具体性を捨象して、共通部分である構造を想定
できるということだ。
アンリ・ポアンカレが「科学と仮説」で述べた、
事実の集積が科学でないことは、石の集積が家でないのと同様である。という話もこれに似ている。
ポアンカレ「科学と仮説」p.171
森博嗣はこのことを、
「その……、思考の複雑性が、数学を生んだのです」と表現した。
「単純な思考装置は、物事を単純に考えようとは思わない、
ということですね」
森博嗣「私たちは生きているのか?」p.194
個々の具体的な情報に触れているだけでは、人間には処理し切れない。
これとこれはこういう観点では同じだとみなすことで楽をしようと
することが構造を抽象する過程であり、何かを認識することですら、
既に抽象を経ている。
無相の情報を認識する過程、認識した情報から知識をつくる過程、
個々の知識の寄せ集めから理論をつくる過程、というように、
構造を抽象する過程は次から次へと連なっていき、著者も言うように、
この構造的にとらえるということは、数学以外のことをやっている構造的にとらえること自体を構造的にとらえたのが数学であるから、
人がさかんにやっていることです。というよりは、人間はみんな
構造的にとらえることができる能力をもっている。
遠山啓「現代数学入門」p.108
本来は、具体的な情報の集合から構造を抽象する過程として数学を
学べるのがよいと思う。
テスト問題と解法パターンを結びつけるのはまさにこれであり、
数学の成績がいい人間は、単に数学の知識がある以上に、構造的に
とらえることについて意識的であることが関係していると思うのだが、
そのことを数学的だと表現しているのはあまり見かけない。
数学が苦手なことを自認している人間が、何らかの具体的な知識が
不足していることをネックだと考えているのだとしたら、まさに
その事自体が数学が苦手なことを端的に表している。
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