サルトル、ニーチェ、バルトは、考え、弾いた。
弾くことについて考えるのでもなく、考えることについて弾く
のでもなく、同時に哲学者と音楽家であった。
サルトルは両者を分けた上で弾くことを私的なものに留めた。
ピアノの演奏は、すべてを語ろう、すべてを理解しようとするニーチェは両者を公にすることでその連関を実践した。
彼の意志から逃れ出る。
フランソワ・ヌーデルマン「ピアノを弾く哲学者」p.23
耳で哲学することによって、またピアノという音叉を評価基準にしてバルトは両者の区別をなくすように重ね合わせた。
美学的・政治的なシステムを問うことによって、ニーチェは近代性の
諸価値や諸特性を見極めるすべを身につけた
同p.115
バルトにとって、ピアノの演奏はまず間違いなく一つの
イディオリトミーだった。
同p.203
ウィトゲンシュタインは「示されうるものは、語られえない。」
と表現したが、三人が捉えようとしていたのも「語りえぬこと」
を如何にして示すかということだったと思う。
因果律、一貫性、大人、プロという語ることの領野に対して、
子供時代やアマチュアに示すことの可能性が拓かれる。
それはむしろ、因果関係によらずに過去と現在を結びつける
柔軟な時間性を意味する。
同p.45
アマチュアとは一貫性の押しつけを嫌う人々のことをいう近代の絶対時間や貨幣という大域的基準が語ることで設定する
同p.148
唯一のエントロピーの尺度がある一方で、「それはかつてあった」
「来たるべき過去」が示す各人のエントロピーの尺度がある。
いずれをも神秘化することのない、
各人固有の時間の使い方も、集団としての時間の使い方も語りつつ示すことを生きるために、サルトル、ニーチェ、バルトは、
可能であるような理想社会
同p.203
考える人間と弾く人間の両方であったのだろう。
著者は、音楽と人間の「流動的でつかの間の共犯」が密かになす
共同体の共通項として、様子、振る舞い、歩調などの広い語義を
もつ「アリュール」allureという言葉を提案する。
「ピアニストのアリュール」を語るだけでは共同体は固定化して
しまうが、「共通し、それでいて異なる個人的な実践」という
アリュールの試みの中で、本人たちすら気付かないまま、
共同体は流動的に維持される。
わたしたちには共通点があるから共同体に属するのだが、その共通点という状態が、「わたし」にも「共同体」にも収束しない、
とは実はその共同体からの留保だということになる。
同p.210
多態性を維持したままでの秩序の更新なのかもしれない。
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