2017-11-12

日本の人類学

山極寿一、尾本恵市「日本の人類学」を読んだ。

類人猿や狩猟採集民の研究を通して現代人を相対化してきた二人の研究者が、人工知能や医療技術の発展とともに揺らぐ人間の定義の在り方を見据えて対話する。
自然人類学と文化人類学を再び統合して人間の来し方行く末を論じることが切望されている。
山極寿一、尾本恵市「日本の人類学」p.9
人間とはなにかを考えるとき、その切り口は、形態、遺伝子、コミュニケーション、衣食住など様々であり、系統樹思考と分類思考を織り交ぜながら抽象できるようであるとよい。

子どもの頃の判断基準の不安定さが失われないことによって、視点の多様性が大人になっても維持される。
ヒトにおいては行為のネオテニー化が起こっていく。子どもの精神・好奇心が大人の間に芽生え、普及していく。
同p.179
精神がネオテニー化したことによって、「古いものを捨て、新しい環境にどんどん進出していく」ようになる。また、言葉という判断基準を共有していない子どもとのコミュニケーションが大人にも広がることで音楽となる。
初めはむずかる赤ちゃんに対して発せられていた音声が大人の間に広がり、心を同一化させるようなファンクションを持って普及した。
(中略)
まさにインタラクションのネオテニー化ですよね。
同p.180

言葉や音楽に限らず、何らかのコミュニケーションを通じて共有された判断基準が文化となる。
文化というのは共有されたひとつの計画性
同p.33
文化は遺伝ではなく、価値判断によってある集団に生ずる現象なのです
同p.34
同じことをする人たちが集団をつくるというのが、文化の大きな特徴だと思います。
同p.191
互いが直接コミュニケーションをとりながら判断基準を更新できるのは、脳容量の関係から一五〇人程度までの集団に限られる。通信手段が変化し、コミュニケーションの同時性や同地性が必須条件でなくなると、見知らぬ相手との判断基準の共有が可能になり、文明が生まれたと考えられる。
集団の人数が一五〇人をはるかに越すようになると、ずるい者や悪い者が出てきて富と権力を独り占めするようになる。極端に言えば、これが文明の本質です。
同p.148
文明の誕生はまた、その時その場所にいるコミュニケーション相手に応じて、共有する判断基準がテンポラリに変化する状況を生み出す。コンテキストスイッチのように複数の判断基準を切り替えるのは、精神がネオテニー化したことによって可能になったと思われる。音楽の誕生に関連して指摘される、
ないものを表すということが起こったのではないか
同p.185
というのも、文明的な判断基準の共有の仕方をするようになったこととつながっているはずだ。

エドワード・ウェスターマークの「幼児期の親密な関係は性衝動を忌避させる」という予言は、コミュニケーションを重ねることによって判断基準が固定化することを言ったものだと考えられる。一度性交渉を伴わない関係に固定化しても、性交渉を伴う関係へと発散する可能性がある場合には、タブーという文明的な制度によって固定化させておく必要があるのだろう。
霊長類の段階から受け継いできた人間の性の生物学的なあり方が、社会的な制度にまで発展する
同p.205

私有というのは、文明的な判断基準の共有の合間に生じるテンポラリな判断基準の共有のことだと思われる。そのため、文化的ではあるが文明的ではない狩猟採集民は、私有せずに共有する。
狩猟採集というのは私有を否定する文化なんですよね。私有ではなく共有です。
同p.135
多様な視点が入れ替わり立ち代り現れる状況というのもまた、テンポラリな判断基準の共有という意味では一種の私有である。私有を避けるというよりは、私有と共有のいずれにおいても、固定化を避けるというのがよいように思われる。

新しい通信手段が集団の形成の仕方を変えるとすれば、情報革命によってコミュニケーションに対する脳容量の制限が緩和されることで、文化と文明の関係も変わってくるだろう。人間の定義が揺らいでいること自体は必ずしも悪いことではなく、つねにいろいろな視点から問いが発せられることで、固定化することなく、創造と破壊の連鎖による秩序の更新が続いていくのがよいと思う。

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