ベルクソン自身も言うように、可笑しさによって引き起こ
される笑いを少数の言葉で定義するのは非常に難しい。
しかし、敢えて本書を読んで心得た「可笑しさによる笑い」
をまとめるのであれば、「集団が、固定化と発散の間で
バランスを取ろうとする衝動」というようなイメージになる。
秩序を秩序のままに取っておきたいという思いと、完全な固定化と書いたように、生命というのは秩序を生み出すことで
という最大の挑戦の間で、生命は常に矛盾を抱えている。
An At a NOA 2016-08-09 “ホメオスタシス”
ありながら、常にその秩序に収束することを避けている。
日本語では「おかしい」という語が「面白い」と「変である」
の2通りの意味で用いられるが、固定化を避けようとする衝動が
前者、発散を避けようとする衝動が後者のように思われる。
風刺画はその程度を強調することで可笑しさを助長するが、
それは細かすぎて伝わらないモノマネにも共通する。
ベルクソンは強張り、機械仕掛け、自動化等と言った語で
固定化のことを表現しているが、当人が気付かないまま、
何か特定の秩序に収束している様は避けるべき状態として
可笑しさをもたらす。
吉田篤弘の小説に出てきた、「パントマイムの秘訣は、あると
思い込むのではなく、ないことを忘れることだ」というシーンを
思い出す。演者が意識していない機械仕掛けに見物客が気付く
ことで可笑しさが生じるのだ。
演者がそれを意識してしまったのでは、どこが面白いのかを解説
された後に聞く冗談のごとくシラけたものになってしまう。
それは、解説によって、固定化に対する危機が解消されてしまい、
衝動が生じなくなってしまうからだと言える。
可笑しさが、孤立した状態では感じられず、文化、常識、習慣、
言語等の基準を共有する受け手の間での共通認識として生じ、
反響しながら広がるというのは、それが集団的な反応である
ことに対応しており、第三章「性格の可笑しさ」において、
非社交性が可笑しさをもたらすと言われるのは、それが集団
からの逸脱という発散につながるためだと考えられる。
不条理が可笑しさを創造するのではなく、むしろ可笑しさからというのは、可笑しさと善悪がどこか似ていることを示している。
不条理が派生する。
アンリ・ベルクソン「笑い」p.167
集団においては、可笑しさが反響して広がり、共有されることで、
「これは可笑しかった」という結果を生み、その集団としての
可笑しさの基準が常に更新されていく。善悪の基準もまた然り。
笑いはなによりもまず矯正である。笑いは侮辱するためにできていて、とあり、笑いが一抹の苦味を含むと言われるのも、バランスを取る
対象である人格に苦痛な印象を与えなければならない。
社会は、人が社会に向かって行使する自由に対して、笑いによって
仕返しする。
同p.179
ための衝動だと考えれば当然のことだろう。
p.s.
第三章では芸術論も出てくるが、ここでベルクソンが詩的想像力
と呼んでいるものが、非同期処理の同期化のやり直しに対応する
だろうか。
2016-11-27追記
吉田篤弘の「空ばかり見ていた」を読み返したのだが、
上記のパントマイムのシーンが見つからない。
村上春樹の「納屋を焼く」だったかもしれない。
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