なんで、なんでと問うその問が、人間を最も特徴付ける。
その問は、発達の段階において、教育するものによって理不尽にも切断されるが、それは特定の対象については高速に判断ができるようになるという点で、教育の有用な一面でもある。
「理不尽」は「理によって尽くさず」と書き下すことができ、すべてが理由律の中に位置付けられる前に判断が下されることを意味していると言える。この理不尽さにあまりにも慣れ過ぎてしまうと、理の中に位置付ける行為である理由付けを再構成する際に自らの力で行うことができなくなってしまい、与えられるがままに「理解」するだけになる。
教育の難しさは、バリエーションに富むわけでもないが、短期間で伝達するにはあまりにも多い「理解」の仕方を何とか伝達するために、理不尽さを必要に応じて混ぜながら行いつつも、一旦は切断した「理解」の根本の部分を如何にして欠損することなく再構成するかということにある。
理不尽さでもって一旦切断した問の連鎖を再構成することなく、理解し解答するという答えを出す部分にだけ終始するのであれば、教育はあまりにも理不尽である。
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