買った当時、表題の「いま集合的無意識を、」だけは
読んだはずで、読み返してもところどころは覚えているが、
今回やっと、神林長平がどんなことを言いたいのかが
おぼろげながらわかったような気がした。
今回もまた、表題作しか読んでいないのだが。
なぜなら、概念などというのは人間が考える〈フィクション〉
にすぎないからだ。〈リアルな世界〉をどう解釈するかという
〈物語〉だ。それを生んでいるのが、まさしくぼくの考える
〈意識〉だ
神林長平「いま集合的無意識を、」p.212
それは、〈わたし〉を生じさせている肉体の、ある一瞬の〈状態〉情報、それを受け取るセンサとしての身体、意味付け、理由付け、
のことであって、固定化された〈主体〉がどこかにあるわけではない、
と考えるのが妥当だとぼくは感じる。
(中略)それは、われわれの認識感覚を越えて広がっている、
いまわれわれが存在しているところの〈リアルな世界〉そのものの、
ある一瞬の〈状態〉でもあるだろう。
同p.213
というものと、同じ捉え方をしているように思う。
神林長平は、ハーモニーにおいて伊藤計劃が〈知能〉と〈意識〉を
切り分けたと指摘しているが、それは意味付けと理由付けの違いであり、
無意識と意識の違いに相当すると思う。
意味付けが大量のデータに基づく特徴抽出であり、
理由付けが少量のデータに基づく投機的短絡である、
という点で、一見両者は異なるが、データ量が十分であるかどうかという
閾値は程度問題であるから、全く異種のものではないと考えられる。
無意識と意識もまた、そのような関係にあるはずだが、
これらが独立に存在できるということには賛成である。
だからこそ、人工知能は無意識にはなれると思うし、意識を実装できるか、
あるいはするべきかという問題はこれとは別問題だと考えている。
最後に、ウェブを体外に出た〈意識野〉として捉える話が出てくるが、
この意識=フィクションの暴走を統合失調状態になぞらえるセンスには
共感できる。
神林長平が思い描いていたような統合失調状態、あるいはその先にある
人格機序の崩壊に、既に差し掛かっているのかもしれない。
一つの人体の中でのコンセンサスがとれなくなる状態を
統合失調症と呼ぶのであれば、社会としてコンセンサスが
取りづらくなっている現代は、統合失調症的な状況に
あるのかもしれない。
An At a NOA 2016-06-06 “統合”
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