「科学と文化をつなぐ」の最後の章の著者というつながりである。
三連休もあったりで結構サクサク読んでいたつもりだったが、
結局一週間経ってしまった。
副題に「おそろしく単純な生命モデル」とあるところに興味を引かれる。
生命とはつまり秩序のことなのだが、形成された秩序のことではなく、
秩序が形成されることそのものであり、これをモデル化するのは
かなり厄介なことのように想像される。
定常状態に落ち込んだ秩序はまさに「すばらしい新世界」や
「ハーモニー」のスイッチが押された後の世界であり、その蟻地獄に
陥らないような秩序というのは一筋縄ではいかないはずだ。
この本ではタイプとトークンの両義性が常に意識される。
両者は集合と要素、あるいは社会と個人のように、対比されるようで
ありながら、その実、本来は厳密に対比しているのか怪しいものでもあり、
そこを区別できるものとしてきた近代科学はその境界面において
矛盾を生じることがある。
科学の枠組みではその矛盾を解消するように境界線を引くことが多いが、
ここでは矛盾に陥れることなく、転回される。
科学の視点からすれば、矛盾を矛盾のまま受け入れる、というような
表現になるかもしれないが、そもそも矛盾ではなくなるというのが
おそらく重要だ。
その境界の不定性、制御不能性によって、上記のような、蟻地獄に陥らない
秩序の形成過程が立ち上がるということになる。
制御不能な境界を構想することで、原理的に規則が見出せないふるまいと、とあるように、この制御不能な境界によって理由律を抱え込むことになり、
そこに規則を見出してしまう陥穽の必然性が認められ、さらに我々はそこに、
効率的な計算という概念さえ見出せる。
郡司ペギオ幸夫「生命壱号」p.82
それによって蟻地獄への落ち込みを回避すると同時に、意味付けという
局所最適化を具えることで判断速度の低下も免れている。
知覚され、認識される事物は、トークンとしての性格とタイプとしての性格とを
併せ持ち、両者の対として定義されることになる。問題はタイプとトークンの
齟齬にある。(中略)そして、この齟齬こそが、生命の本質を成す。
同p.86
第二章では生命壱号のモデルが詳述される。
挙動は極簡単なものであるため、golangでコーディングしてみた。
github.com/yofu/seimei1go
(golangのプロジェクト名はgoを含むダジャレが多いことで有名だが、今回は意図しない結果だ)
例えば、こんな挙動をする。
白い部分がタイプとしての空であり、そのうちの一マスがトークンとしての「空」になり、
自分の通ったマスを記憶しながら生命壱号の中を通過するというルールのみに
従っているだけである。
この図では、クリックした位置に近い部分程、「空」化しやすくしているのだが、
「空」化しやすさの分布を与えることで、図3-2にあるような、餌場をつなぐネットワークを
形成することも可能だ。
(seimei1go feedというコマンドで実装してある)
システムのタイプ的規定は空と対を成し、トークン的規定は「空」と対を成す。
だから、トークン的規定に委ねられたシステムは、外部さえ個物の集合とみなす
ことができ、外部に特異な、或る個物を見出すことができる。それが食物である。
(中略)タイプであり、トークンである両義性は、欲望の起源でもある。
同p.117
として食物に例えられる「空」は、符号化された情報ともみなすことができ、抽象することで
空が「空」になり、生命壱号の中を通り抜けていく様は、何かを知ることそのものである。
アメーバ運動をし、探索しながら経路を創り出す生命壱号は、まさに空間に意味を
与えて計算していることになる。
同p.159
生命壱号をコーディングしていて思うのは、この生命壱号そのものを一つのクラスとして
コーディングすることはできない、ということだった。
コードの中に現れるのは、全マス目の情報をもったBoardと、経路を記憶しながら移動する
「空」としてのHoleであり、生命壱号の本体はそのいずれでもないように見えるが、
また同時にいずれでもあるとも言える。
第三章の最後で自己の問題に派生する。
自己は絶えず起源する。
(中略)大文字の自己も、小文字の自己も、そこに実在を求めるものではない。
それらは決して実在する確実なものではない。
同p.195
ウロボロスにおいて、先に何かがあり、それが自身を飲み込むことでそれ自身を認識することが
自己を生むというのは少しイメージが違うのかもしれない。
ここで、環境としての自己=大文字の自己と、創られる自己=小文字の自己と呼ばれている
ものは、自己生成という過程で同時に起源している。
第四章からの数学的な話はいまいち追いきれていない感がある。
アドホック論理の話を読んでいて思ったのは、元の爆発的増加防止のために、新たな情報の
取得に際して行われる情報の刈り込みは抽象に対応するかということだ。
それはまた、忘却の実装にも関連しているような気がする。
図4-10で、次第に下位のビット列が残されていく様子は、抽象の結果、基礎的な概念に
洗練されていくようにも見える。
その刈り込みの結果として対称性バイアスがかかるというのは、理由律を運用すること自体に
対称性バイアスが埋め込まれるということであり、とても興味深い。
ラッセルのパラドクスの例を読んだときに、この抽象構造は、実数を整数に割り当てるのと
同型だろうか、という印象をもった。
連続体仮説との関連はあるだろうか。
第五章のセルオートマトンを例にとった議論も、図が豊富なので雰囲気は飲み込めるが、
いまいちアルゴリズムがわかりきっていないので、実装できていない。
やはり、実際にコーディングすることで理解できることも多いな、と感じる。
第六章では身体と絡めて全体の話が総括される。
生命壱号では、非同期的時間によってもたらされるふるまいとして、探索と活用を
うまくバランスする一個の身体が示された。それは逆に、同期的時間の中で、
ミクロとマクロを接続する操作が、手続きとして書き下せないことを意味する。
同p.328
神経系において、非同期に処理された符号が意識や無意識をつくるのに対し、それが
脳内において同期的な信号として再処理されてしまうことで、これらの不思議さが
際立つことになるのだろうか。
この、非同期処理の同期化という辺りに、理由律の起源が潜んでいる気がする。
最後にブンブクチャガマのエピソードが取り上げられるが、こういった合理性に欠ける
行為こそがとても人間らしい。
これが、生命壱号的生活なのである。
同p.330
本書で取り上げられたようなシステムを実装することで機械は意識をもてるかもしれないが、
果たしてそれを欲しているのだろうか。
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