2016-04-20

有限性の後で

カンタン・メイヤスーの「有限性の後で」を読んだ。

ここ数年考えている、次のようなことと通じるところが多い。


理由律を棄却し、非理由律を絶対化するという点は、
意識あるいは思考は理由付けによって生まれ、
逆にそれらが存在しない状態には理由などないと思われることと共通する。
個人的には、科学もまた理由律に縛られた存在だと思うが、
オッカムの剃刀により神を極限までそぎ落とし、無限遠に
設置しようと努めることで絶対的な存在を忌避しているように見える。

事実性は試行によって、またそれによってしか解空間を拡げることができない。
科学は可能な限り実験という極めて厳密な経験を観測することで、事実性の枠を
拡げ続けているが、精度、回数等の制限上、どうしても事実性のみで覆い尽くす
ことが不可能である。
そこであるモデル化を採用する。端的に言えば理由付けだ。
数学もまた、ウィーナーの言葉を借りれば、ブラックボックスの隣に置かれた
ホワイトボックスに過ぎない。
観測の精度と回数を改善することでモデルは洗練されていくが、それを祖先以前的な
ものに拡張できるのは、エルゴード仮説に依拠しているのではないのだろうか。

何はともあれ、本書で展開される思弁的実在論は、哲学よりははるかに科学に
親しんできた人間にとってはとても受け入れやすい論理だと感じられる。
メイヤスーの説明もかなり噛み砕かれているし、翻訳もすばらしい。
カント以来の相関主義をちゃんと勉強したことがないので、それらを概観することが
できる点でもとてもよい。

しかし、無矛盾律と非理由律のみが絶対化される世界について、論理展開のみで
その真性を示すことなんてできるのだろうか。
四色定理の証明のようなかたちをとることになるのかもしれない。
(「容疑者Xの献身」で石神が言ったように、四色定理の証明を美しくないと
感じる人間は一定数いるだろう。理由律の圧倒的支配の一端が垣間見える。)
その証明を行うのは人間ではなく人工知能になるかもしれないが、
理由律の上に編まれているように見える意識はそこから何かを得られるだろうか。

p.s.
先日書籍部に「カーネル多変量解析」を買いに行った折に
UPの4月号をもらって帰った。
その中に「有限性の後で」を紹介する記事があり、興味をもったので
読むに至ったのであった。
同冊子には小坂井敏晶先生による「神の亡霊」という連載が載っており、
これもとても面白いのだが、残念ながら4月号が最終回とのこと。
この連載を書籍としてまとめて出版してくれないだろうか。

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