紙の書物と電子書籍の関係について考えていたことと
共通する部分が多く、おーやっぱりこういうこと考える人も
いるんだ、と少し嬉しくなる。
文章の書き手がある主題について考えたこと(思想)とというかたちで文体のイメージを整理した上で、いわゆる文体だけでなく、
その配置こそ文体の本質であり、これは他人が盗み取れる
ものではない。というのも、文体とは人がものを考える際に
設ける秩序と運動なのだから。
山本貴光「文体の科学」p.17
本の大きさ、デザイン、使われている紙、ページ上の文字の配置、といった物質的な側面も文体の一部に含めている。もちろん、紙の書物
使われている書体やその大きさなどなど
同p.19
だけでなく、電子書籍やウェブサイト等も視野に入れて。
著者が指摘するように、これらはデザインとして語られることが多かったが、
それをまとめて整理するという発想にはとても共感できる。
文字の物質的な配置についてのエピソードとして、
書き手がページ・レイアウトを意識して、読者がページをめくるという経験をという京極夏彦の例を挙げている。京極作品は読んだことがないのだが、
考慮しながら原稿を書く場合もないではない。
同p.30
森博嗣の作品でも同じことを感じる。だからこそ、森博嗣の作品を電子書籍で
読んだときに、どうしても改行や改ページの位置が気になってしまう。
数学に限らず、そのまま記せば長くなるものを、人間はあの手この手で言葉自体、無意識や意識という抽象過程の抽象から生じる類のものである。
圧縮・短縮する。(中略)それは記憶の経済とでも言うべき興味深い
ことばの現象でもある。
同p.60
繰り返し使用される中で、常に圧縮・短縮されるというのは、使用頻度の高い
ものにより短い符号を割り当てるという、データ圧縮の基本と通じる。
第四章ではガリレオの「天文対話」を例にとり、
「知る」とはどういうことか、これが対話の隠れた主題なのだ。としている。天文対話において、最終的に天動説にも地動説にも決着しない
同p.93
ことが面白い、というのには賛成だ。
どういうモデル化を採用するかによっては、天動説を正とすることも可能だろう。
しかし、よりシンプルで、より多くのことを説明可能なモデル化があれば、
コンセンサスはそちらに移行していく。正しさとはそういうものだ。
第九章の批評についての文章の最後で、多様な読み方が生じる理由として、
つまり、文章を読み解くということは、その文章と読み手の脳裡にある知識やとしている。本が固定されたものだとしても、人間の側が個人個人で異なり、
経験の記憶を結び合わせるということでもある。
同p.232
あるいは個人でも時々刻々変わることで、受け取り方は変わる。
終章において、
「同じ」テキストデータであれば、どのような表現形式で読んでも、「同じ」という問に対し、認知心理学や神経科学の観点からは否となるだろうという
読書を体験できるだろうか
同p.263
展望を述べているように、そこには本の物質的な側面も当然関わるだろう。
「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」を読んで感じたことだが、
人間の意識が身体というセンサの特性に規定されるように、書物もまた
表現媒体に規定される。
意識を別の回路に移したときに、センサ特性が変わることで、元の意識と
同じところもあれば違うところも出てくるだろう。
同じように、一つの書物を紙の書物で読んだときと電子書籍で読んだときとでは、
同じように伝わることも、違うように伝わることもあると考えられる。
筆者が言うように、どちらがよいということではなく、そこを考えるのはとても
楽しいだろうということだ。
この本を読んでいて、游明朝体が藤沢周平の小説を組めるフォントを目指して
開発されたという話を思い出した(雪朱里「文字をつくる9人の書体デザイナー」)。
本職ではないが、タイポグラフィを始めとしたデザインの話は好きだ。
このブログにおいても、改行位置、空行の数、漢字とかなの別、cssによる見た目の
調整等、気が遣える限りのデザインを施している。
モバイル版にまで手が回っていないのが心残りだ。
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