人間の器官がなぜ莫大な数の原子からなっていなければ
ならないか、という問題設定に対し、
われわれが思考と呼ぶところのものは、というかたちで冒頭ではっきりと示している。
(1) それ自身秩序正しいものであること、
(2) 或る一定度の秩序正しさを具えた知覚あるいは経験のみを
対象とし、そのような素材のみに適用されること、
であります。
E.シュレーディンガー「生命とは何か」p.23
結論を冒頭にもってきて、見通しのよい議論をするあたり、
とても物理学者らしく、読んでいて気持ちがよい。
莫大な数が秩序につながり、それが思考あるいは生命になるという考えは
「風は青海を渡るのか?」で森博嗣も取り上げているが、秩序があること
そのものではなく、秩序をつくっていくこと自体が生命の本質である。
これが、本書の後半で取り上げられる負のエントロピーという概念につながる。
エルゴード性を仮定すれば、莫大な数というのは空間的ではなく
時間的でもよいのだろうか。
その観点から言えば、情報を秩序だて始めたのは一般的に生命と認識される
よりも遥か以前の段階であり、システムを構成する原子の数が少なかった
時代には時間的に送受信回数を稼ぐしかなかったのが、原子の数が増えることで
空間的にスケールすることが可能になり、生命らしさが爆発的に進行したという
ストーリィはあり得る(まあでもバッファ領域がないとダメか)。
量子論の観点から、突然変異を異性体への遷移として説明しているあたりは
なるほどなという感じだ。
第六章がまさに「秩序、無秩序、エントロピー」となっており、個人的には
ここが本題だと思っている。
章の始めに引用されているスピノザの一節が印象的だ。
身体は心が考えるのを決定することはできないが、心も身体が運動したり、この章で負のエントロピーが登場する。
静止したり、その他の何か(たとえ何かそういうことがあるとしても)を
するのを決定することはできない。
同p.133 スピノザ「倫理学」第三部第二項
そしてそのようにして、死の状態を意味するエントロピー最大という危険な状態に負のエントロピーはその後否定されたという話をどこかで読んだが、
近づいてゆく傾向があります。生物がそのような状態にならないようにする、
すなわち生きているための唯一の方法は、周囲の環境から負エントロピーを
絶えずとり入れることです。
同p.141
負のエントロピーの摂取になぞらえた秩序の希求がすなわち生命の本質
であるというのは、相変わらず的を射ているように思う。
シュレーディンガーが「生命とは何か」を書いたのが1944年であり、
シャノンが「通信の数学的理論」を書いたのは1948年であった。
このあたりからエントロピーが情報や生命と結び付けられるようになったのだと
思うが、大本はやはりボルツマンなのだろう。
そう言えば、
ボルツマン定数 k=1.38064852(79)×10^−23
アボガドロ定数 NA= 6.022140857(74)×10^23
のオーダーが近いのは、原子スケールと人間スケールのスケール差を示すという
点では、ある意味当然なんだろうか。
と思って調べてみたら、モル気体定数R=k×NAというとても懐かしいワードに辿り着いた。
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