(という文章を、あなたは今、まさに読み終えた。)
「屍者の帝国」よりも先にこちらを読んでいたのだが、
後半の「屍者の帝国」読解部分でネタバレを避けられない
ということで、踏ん切りをつけて「屍者の帝国」を読んだのだ。
前半のメタフィクションの整理と、後半のパラフィクションの
解説としての伊藤計劃、円城塔、神林長平の解読はいずれも
とても興味深い。
特に後半は好きな作家ばかりが集まっているのもあり、
非常に納得のいくものだった。
読者の意識的無意識的な、だが明らかに能動的な関与によって佐々木敦の言うパラフィクションというのは、神林長平の
はじめて存在し始め、そして読むこと/読まれることの
プロセスの中で、読者とともに駆動し、変異してゆくような
タイプのフィクションのことを、パラフィクションと呼んで
みたいと思うのだ。
佐々木敦「あなたは今、この文章を読んでいる。」p.222
「いま集合的無意識を、」で初めて実感したように思う。
「屍者の帝国」のエンディングも素晴らしかった。
そして個人的には、「シン・ゴジラ」を観たときに感じた
ことも、パラフィクション的だったように思う。
ところが、震災のことをテレビやネットで第四の壁越しに見て本来フィクションである作品が、このようにしてノンフィクションとして
いたために、スクリーン越しであることが、かえって自分自身で
あることを強化する。
An At a NOA 2016-08-04 “シン・ゴジラ”
受け取れたという事実が、私にとって「シン・ゴジラ」がパラフィクション的
だったことの証左だと言えるだろう。
この本で展開されるメタフィンクションやパラフィクションの問題は、
意識の問題でもある。
ストーリーテラーであるのと同程度にストーリーリスナーであることを
意識が自覚するとき、パラフィクション的な自意識が芽生えるだろうか。
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