「社会心理学講義」の方が後に出ており、「責任という虚構」の
おおよその内容は書かれているので、前者だけ読むだけでも
よいかもしれない。
ただ、「結論に代えて」という章で、「責任という虚構」を上梓した
意図を、ストレートな言葉で表現しているあたりは読んでみて
よかったなと思える。
しかしそんなに簡単に世界の虚構性を認めてよいのか。
逆説的に聞こえるかもしれないが、根拠に一番こだわっているのは
私の方なのだ。(中略)人間が作り出した規則にすぎないのに、
その経緯が人間自身に隠される。物理法則のように客観的に
根拠づけられる存在として法や道徳が人間の目に映るのは何故か。
これが本書の自らに課した問いだった。
小坂井敏晶「責任という虚構」p.257
自動車会社のスズキの燃費計測方法の話題は、結果の数値としては
安全側に違っていたらしい。
これが「不正」として取り上げられるのは何故か。
それは、この場合の正や不正の判定は法に基づいて行われるからだ。
エンジニアとしては法で定められている方式よりもよりよいと思われる
方式があれば、そちらをとるのが善だと考える場合もあるだろう。
その場合には善悪の判定は自然法則等に基づいている。
小坂井氏の言葉にあるように、普遍的な真理や正しさが存在するという
信念こそが危険なのである。
正しいからコンセンサスに至るのではない。コンセンサスが規則を守るだけでは善にはならないという教育がよくされる一方で、
生まれるから、それを正しいと形容するだけだ。
同p.166
正しさや善さというのは規則のようなものによって形成される。
より正確には、「コンセンサスはすべてが明示されるわけではなく、
唯一不変であるわけでもない」といったところか。
真善美は集団性の同意語に他ならない。「社会心理学講義」の記事に書いたディープラーニングと虚構の話は、
同p.257
倫理判断は合理的行為ではなく、一種の信仰だ。
同p.259
どちらかというと、虚構がないというよりは、人間以外によって作られた
虚構だけがあるということかもしれない。
ベルクソンが社会を「神々を生み出す装置」と言い、デュルケムが
「社会が象徴的に把握され、変貌したものが神に他ならない」と言ったように、
神ですら人間以外から与えられたものではない。
神の死によって成立した近代でも、社会秩序を根拠づける<外部>は本書で<外部>と呼ばれているものを作り出すのが自分以外になった世界で、
生み出され続ける。虚構のない世界に人間は生きられない。
同p.247
人間は、あるいは意識は生き続けられるだろうか。
それは虚構がある世界なのだろうか、ない世界なのだろうか。
もしかしたら、その状況のことを「支配」と呼ぶのかもしれない。
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