コモン・センスを、常識の面と共通感覚の面から、
歴史的な経緯も踏まえて捉え直している。
近代では常識としてのコモン・センスが強調されてきたのに対し、
アリストテレス以来、中世までは注目されていた共通感覚の面を
再発見するという点で、コンセンサスについての話の参考になる。
第1章「共通感覚の再発見」において、二種類の常識が示される。
一つは、
共通感覚による諸感覚の統合の或る仕方が惰性化されてもう一つは、ちょっと具体的な箇所としては引用しにくいのだが、
人々に共有されたもの
中村雄二郎「共通感覚論」p.30
一つ目のような共通感覚の統合を打ち破るために、組み換えられた
ようなものを言っており、「体性感覚的統合」と呼ばれている。
前者についても、引用箇所の直後で、まったく無用だなどというのではない、
と言われているように、野矢先生風に言えば、物語を共有することは
むしろ必要なことであるとしている。
ヴィーコを引きながら、
真実らしいもの、つまり蓋然的にいって正しいもの、に対するわれわれのとしているあたり、小坂井先生や野矢先生の話にも通ずる。
感覚(判断力)は、真理の不十分な認識などではなくて、それは、
もっと広範囲の根柢的なものである。そして、正当とか証明可能とかいう
意味での正しさや真実(単純明快な真理)の方がかえってコモン・センスの
上にもとづいている。われわれ人間の生において重要なのは、物事の
在り様と周囲の状況に照らして判断を行うことであり、それこそが
コモン・センスの本質にほかならない。
同p.41
ブランケンブルクや木村敏の著作を例に取りながら、コモン・センスという自明性の
喪失が精神病につながるという話もとても興味深い。
共通感覚というのは、一つ目の意味で想起されるような、複数の人間間での
共通であるだけでなく、同時に、二つ目の意味で想起されるような、一人の人間の
中での複数の知覚の共通あるいは統合でもある。
体性感覚的統合が重要なのだとすれば、能動的に動かせる躯体なしでは
センサには共通感覚は生じない。
逆に、体性感覚的統合が可能なかたちで各センサの入力を処理できるプロセッサを、
能動的に動かせる躯体に組み込むことで、共通感覚は再現可能だろうか。
このとき、共通感覚はすなわち意識となるだろうか。
つまり、そういった仕組みで動くロボットに意識をみることは可能だろうか。
思うに、それは可能である。
問題は中身のアップデート方法だ。
各センサの入力を統合する方法をハードコードしただけでは、どんなに上手くやっても
惰性化につながる。
仮に、そういった統合方法を都度ソフトウェアアップデートするとしても、そこには
支配された共通感覚のようなものしかできない。
そこにも、場合によっては意識をみることができるかもしれないが、
本当に意識がみられるとしたら、統合方法のアップデートを自ら行う仕組みも含めた
ハードウェア+ソフトウェアを実現するしかないだろう。
それは、ハードウェアでもソフトウェアでもなく、EX_MACHINAでwet wearと
呼ばれたようなものなのかもしれない。
これこそが、訓練データの正義を疑う機構になるのだろう。
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