サディストとマゾヒストの話。
サディストが制度を定め、それを押し付けるのに対し、
マゾヒストは制度が定まらない中で、関係を宙吊りにする。
意味付けは、試行回数を増やすことで制度を固定しようとする点で
とてもサディスティックである。
だから記述すること、認識すること、もっと言うなら知覚することは、理由付けも、一度設定した理由に固執する段階ではもはや
対象化の完了=否定という意味でサディストの責務となる。
郡司ペギオ幸夫「いきものとなまものの哲学」p.36
サディスティックになるが、新しい理由を設定する段階では
マゾヒスティックなはずだ。
それは、記述の否認であり、解釈の多様性を呼び起こし、知覚の一般化されたサディストとして意味付けを行い、
対象であった表象の解釈を多義的に横断していく、感覚である。
同p.37
一般化されたマゾヒストとして理由付けを行う。
近代から現代にかけて、理由付けの領域もサディスト的傾向が強く
なっていたのが、マゾヒスト的傾向に移りつつあるのは、本来の在り方に
近づいているのかもしれない。
ニーチェのツァラトゥストラを取り上げ、貴族的価値評価と僧侶的価値評価の
双対性を述べる箇所は、正しいとはどういうことかについて示唆的である。
果たして、双対図式は、解体される。(中略)別の双対図式へ移行するわけでも、高校のとき、国語教師から脱構築という言葉を習った。
双対図式自体が打ち捨てられるわけでも、ない。それはまさに脱構築なのである。
同p.73
そのときは二項対立の解消というくらいの説明しかなく、それ以来ちゃんと
理解しようとする機会もなかったが、この本でおぼろげながらわかりかけた気がする。
意思決定の在り方が最近難しくなったという話を書いたが、駅乃みちかや
黒岩の写真展のニュースを見ていても、これだけ通信が高速化、広域化した
状態では、従来の価値評価方法はもはや通用しないという感じがする。
皆が超人となって決定を行えればよいのだろうが、果たして可能だろうか。
そもそも、超人は集団をつくるのだろうか。
それは、超人は正義や真というものを一つに定めるのか、という問と同じように
思えるが、それはおそらく偽だろう。
超人のつくる集団の在り方は、人間のつくるそれとは違うのだろう。
セルオートマトンの例は「生命壱号」でも出てきたが、こちらの解説の方が
わかりやすかったように思う。
同期的な更新では見られなかったカオス的振る舞いが、非同期的更新によって
現れる様は、単純だがとても興味深い。
非同期処理はたとえ同じ因果律に従い、決定的に振る舞うとしても、それを
同期的なものとして解釈することで脱構築されることになる。
4−2節で、非同期同調オートマトンを同期的オートマトンに分解するところは、
伊藤計劃の「無意味であることに耐えられないんですよ人間は。」という言葉を
思い出した。
思弁的実在論との関係が整理される中で、メイヤスーの話が出てくる。
メイヤスーは知覚を減算と捉えると述べられているが、この減算は知覚する段階と
それを統合する(すなわちコンセンサスをとる)段階のいずれで生じるのだろうか。
また、その減算によって、非可算集合が可算集合に割り当てられる、と言えるだろうか。
減算というイメージは、認識が圧縮であるというイメージに通ずるだろうか。
「あとがき」において共感覚の話が出てくる。
指摘しているのには気付かされるものがある。
知覚というサディストに支配されることに、いつの間にか慣れきってしまっているのだろう。
この本を読んでいると、科学は未だに近代を引きずっているなということを強く感じる。
双対図式をつくっては乗り換えを繰り返し、最終的には絡め取られたままだ。
科学としては、そういう在り方のままでいることが重要なのかもしれないな、という思いも
ありつつ、でも、その方法論だけでは意識や生命の問題には辿りつけないんだろうなと。
最近考えていることをちゃんと言語化するのに向けて、この本はおそらく為になるのでは
ないかと感じている。科学の本流からするとツッコミどころが多い部分もあるかもしれないし、
そもそも、その方向に進むべきなのかという議論もあるだろうが。
問題設定の多くは、ジル・ドゥルーズに通じている。
読まねば。
そもそも、超人は集団をつくるのだろうか。
それは、超人は正義や真というものを一つに定めるのか、という問と同じように
思えるが、それはおそらく偽だろう。
超人のつくる集団の在り方は、人間のつくるそれとは違うのだろう。
セルオートマトンの例は「生命壱号」でも出てきたが、こちらの解説の方が
わかりやすかったように思う。
同期的な更新では見られなかったカオス的振る舞いが、非同期的更新によって
現れる様は、単純だがとても興味深い。
非同期処理はたとえ同じ因果律に従い、決定的に振る舞うとしても、それを
同期的なものとして解釈することで脱構築されることになる。
4−2節で、非同期同調オートマトンを同期的オートマトンに分解するところは、
伊藤計劃の「無意味であることに耐えられないんですよ人間は。」という言葉を
思い出した。
思弁的実在論との関係が整理される中で、メイヤスーの話が出てくる。
メイヤスーは知覚を減算と捉えると述べられているが、この減算は知覚する段階と
それを統合する(すなわちコンセンサスをとる)段階のいずれで生じるのだろうか。
また、その減算によって、非可算集合が可算集合に割り当てられる、と言えるだろうか。
減算というイメージは、認識が圧縮であるというイメージに通ずるだろうか。
「あとがき」において共感覚の話が出てくる。
ところが逆に、世界を色や形、匂いや音など、様々な相異なる質感によって分節する、というかたちで、共感覚がむしろ不思議なものではなく、自然なものであることを
我々の知覚システムのほうが、成長の過程で構築されてきた、世界にとっては特殊な
もののはずだ。
同p.239
指摘しているのには気付かされるものがある。
知覚というサディストに支配されることに、いつの間にか慣れきってしまっているのだろう。
この本を読んでいると、科学は未だに近代を引きずっているなということを強く感じる。
双対図式をつくっては乗り換えを繰り返し、最終的には絡め取られたままだ。
科学としては、そういう在り方のままでいることが重要なのかもしれないな、という思いも
ありつつ、でも、その方法論だけでは意識や生命の問題には辿りつけないんだろうなと。
最近考えていることをちゃんと言語化するのに向けて、この本はおそらく為になるのでは
ないかと感じている。科学の本流からするとツッコミどころが多い部分もあるかもしれないし、
そもそも、その方向に進むべきなのかという議論もあるだろうが。
問題設定の多くは、ジル・ドゥルーズに通じている。
読まねば。
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