2019-02-09

「日本」確立の寓話としての竹取物語

618年に成立した唐は、7世紀当時、広くアジアに影響を与えた帝国であったとされる。東アジアの小国の倭国にとって、対外戦略は喫緊の課題であったはずであり、7世紀後半は、唐に倣うべきかと唐に逆らうべきかの間で揺れながら、「日本」と「天皇」を確立しようとしていた時代だったと言える。

乙巳の変(645年)は、百済重視の外交保守派による外交革新派へのクーデターだったが、白村江の戦い(663年)での敗戦で百済重視は行き詰まる。その後、クーデターの当事者でもあった天智天皇は唐化にシフトして「日本」や「天皇」を確立しようとした。これが実質的な大化の改新であったと思われるが、国内外へのアピールとして、乙巳の変の直後に時代設定を改変する必要があったのだと推察される。急激な唐化への反発として起こった壬申の乱(672年)で勝利を収めた天武天皇は、「日本書紀」と「古事記」の編纂、天照大御神の設定や式年遷宮の開始を含む伊勢神宮の確立などを通して、唐の真似事に終止せず、大陸の影響と土着文化を上手く編集するかたちで、「日本」を確固たるものにしようとした。唐という巨人がもたらした不安定な国際情勢の中で、中央集権化によって独立を維持しようとする一連の動きは、大宝律令(701年)の制定をもって、一応は成し遂げられたと言える。

成立から約300年、かつては巨人であった唐も不死身ではなく、907年に滅亡する。その少し前、894年には菅原道真によって遣唐使が廃止されており、9世紀後半にはもはや唐は脅威ではなく、「日本」という国家が確立されるきっかけを与えたかつての脅威として語られるものになっていたのかもしれない。それが竹取物語だと考えてみるのも面白い。

擬人化された律令国家としてのかぐや姫が、竹のようにすくすくと成長し、壬申の乱の面々を翻弄する物語。月は唐であり、帝は天武天皇だろうか。その一連の物語をまとめたのは、菅原道真だろうか。

歴史にも竹取物語にも諸説があり過ぎて空想の類にしかならないが、どこか腑に落ちるところもある。

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