2019-01-09

ショッピングモールから考える

東浩紀・大山顕「ショッピングモールから考える」を読んだ。

苛酷な外部の中に生み出された、一つの世界観をもった内部。テーマパークやショッピングモールもまた、宗教や政治、文化と同じように、そのような内部の一つであり、同一の世界観に支配された純粋な内部は、自然に対する人工としてのユートピアとなる。

生み出されたばかりの内部は純粋だが、純粋さを維持するには努力を要する。それを担うのがバックヤードだ。メンテナンスを怠れば、熱力学第二法則に従って、内部は次第に複雑化していく。それを不純化と呼ぶのか、多様化と呼ぶのか。外部として括り出される砂漠や商店街もまた、かつて純粋だったものの名残りなのだろう。エントロピーの増大したかつての内部を外部としながら、新しい内部を生み出していく過程そのものが、とても生命的で面白いと思う。

一方で、純粋さを完璧に維持し続ける内部に対して、人間が完全に順応してしまえば、個体としての人間は思考する必要がなくなり、意識は不要になる。その代わり、人間を包含した内部そのものが、苛酷な外部環境に生きる生命になるだろうか。意識を失った人間がショッピングモールという生命の一部として機能する様を、現在の人間はディストピアとして憐れむかもしれないが、単細胞生物が多細胞生物に覚える憐れみを、多細胞生物には知る術がない。意識をもった人間のままであろうとするならば、揺るぎないユートピアは遠くから眺め、たまに訪れるくらいにして、儚いユートピアを次々に生成するのがよいのかもしれない。これは、そもそも現状がそれほど苛酷でない環境にいるからこその考え方だろうか。

最近月一で訪れるマニラには、都市の中に巨大なショッピングモールが点在している。マニラでショッピングモールに行く度に、ショッピングモールらしさの普遍性を感じるが、それも実は「京都らしさ」とそれほど変わらないものなのかもしれない。局所的な統一感が許容され、大域的な統一感が忌避されるというよりも、ある世界観によって統一されることで局所が定まるのであり、グローバリズムによって現れた新しい「局所」が、これまでの空間的な局所とは違うというだけなのだが、顔見知りでない人と避難所で夜を明かせないのと同じように、慣れ親しんでいない世界観がもたらす「局所」は倒錯として映り、抵抗感が生まれるのだろう。

現実でも虚構でもないシュールレアルとして生まれた内部は、いつかただの現実になる可能性を秘めている。ショッピングモールはどうなるだろうか。こういう「愚かな」ことを考えていたい。

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